人文知

人文知とは、答えなき領域の探究 ― 人文知探究室✕吉見俊哉・観光まちづくり学部 観光まちづくり学科 教授

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 道に迷うことも、それによって時間が経過していくことも、私たちは忌み嫌うようになっているように思える。最短距離で、最適な解へ。そうした思考をテクノロジーが後押しし、タイムパフォーマンスは限りなく向上していく。しかし同時に、その速度のなかでいつの間にか失っているものの存在にうっすらと気づいているからこそ、人文知へと手を伸ばすのかもしれない。

 人文知探究室は、本学に根づく「人文知」の可能性を掘り下げるプロジェクト。近年注目され、耳目を集める「人文知」の可能性を、國學院の学内から見つめ直す人文知探究室は、さまざまな専門家と共に、ジャンル横断的な対話、日々の生活やビジネスとも結びつけつつ思案と模索を重ねてきたシリーズである。7人目は、ここ40年近く日本の社会学を牽引してきた吉見俊哉・観光まちづくり学部観光まちづくり学科教授だ。都市を語るプロフェッショナルであり、「街歩き」による身体的な知のありようにも傾注する吉見教授。巨視的/微視的な視点を往還しながら、人文知の明日を探るインタビューとなった。

人文知への期待と現在地点

探究室 社会学者である吉見教授は、都市を演劇的観点から論じるなど、人文知にもまたがる言論活動を続けてこられました。今、世の中が抱いている人文知への期待感が、吉見教授の目からどう見えているのかというところからお話をうかがっていければと思います。

吉見 たしかに人文知に対する期待はいろいろあるでしょうし、私もさまざまな場で人文知、別の言い方をすると文系の知の価値について講演する機会があります。ただ一方で、真逆の流れもありますよね。データサイエンスを中心に理系人材が必要だという産業界の要請は年々強くなっていますし、それと連動して高校や大学でも理系を重視し、理系人材の育成を拡張する流れが顕著です。ここ20年ほどの理系シフトの潮流が存在する一方で、人文知はやはり大事だという声がある。まずはその双方を視野に入れることが重要だと思います。

探究室 たしかに、文系の知と理系の知をめぐる状況は、一筋縄ではいきませんね。

吉見 そもそも、「文系」と「理系」をこんなに分けるのは、日本をはじめとした東アジアの一部の国や地域のみです。特に日本の場合、文理の区別は大学受験に即したものですね。つまり、大学入試を数学で勝負するか、それとも英語や国語、歴史で勝負していくかという違いです。しかし冷静に考えれば、たとえば通常は理系に区分される建築学にも歴史の知識が必要ですし、一方で文系とされる経済学であっても数学は必須です。その学問としての内実は文系と理系にきれいに分けられるものではなく、多くの場合、文理にまたがる知見が求められるのです。こうした例は、地理学などを含め、枚挙に暇がありません。

探究室 多くの学知が、実は文理をまたいだものである、と。

吉見 これは後にも話が出ると思いますが、生成AIとのコミュニケーションにおいて用いられるのは「言葉」です。しかし、コンピューターサイエンスの視点からすれば、それは「情報」です。「言葉」と「情報」は、何が違うのか。それは、同じ事象を異なる視点から見ている違いなのですね。言葉に内在し、その意味を深く味わおうとするか、それとも情報を知的な操作対象として処理していくかという違いです。ですから、領域をまたいだり、逆に分節化したりする知の営みのなかで、改めて人文知の位置を考える必要があります。つまりそれを、「文系/理系」という二項対立的な区分ではない枠組みで捉えたほうがいい。たとえば、リベラルアーツや人文社会科学という概念もありますよね。

リベラルアーツという一体的な学問

探究室 リベラルアーツは現代では「教養」と同義のように思われがちですが、基本的には中世ヨーロッパで成立した学問体系ですよね。

吉見 文法学、修辞学、論理学、代数学、幾何学、天文学、音楽の7つの分野で構成されているのが「リベラルアーツ」です。その意味では、医学や法学はリベラルアーツではない。人のため、国家のために役に立つことが第一の知だからです。他方、文法学、修辞学、論理学は今でいえば文系、代数学、幾何学、天文学は理系、残りの音楽は芸術系といえるでしょうが、中世にはそんな区別はなく、これらは一括りでした。後年、16~17世紀になると、このリベラルアーツは「哲学」と呼ばれていきます。「我思う、ゆえに我あり」というフレーズで知られるデカルトは数学者でもあり、デカルト座標系を考えました。モナド論という哲学的議論で知られるライプニッツは微積分の確立に貢献しました。

探究室 文理融合的な知としてのリベラルアーツ、ないし哲学というわけですね。

吉見 学問が「文系」と「理系」に分化していったのは、産業革命が進展した18世紀末以降と考えられます。象徴的なのが工学、すなわちエンジニアリングの興隆です。同時期に農学や医学も発展していきます。これらは目的に奉仕する学問です。このような有用な学問ばかりが大切にされる時代に対して、『大学で何を学ぶか』という今でも参照される古典を著した19世紀イングランドのカトリック思想家、ジョン・ヘンリー・ニューマンが、痛烈な批判を浴びせています。こうした目的が明確な学問は、“自由の知識”ではなく、“奴隷的な知識”である──つまり、目的という主人への奉仕に過ぎない、というわけですね。

探究室 あまりにも手厳しいようにも思えますが……。

吉見 たしかに、これは非常に辛辣な意見かもしれませんね。ただ、いずれにしてもリベラルアーツとは目的に縛られない自由な知だ、という点は押さえておきたいと思います。

探究室 目的に資するための知ではない、と。

吉見 人文社会科学という領域が伸長していったのも、産業革命以降のこうした流れのなかで考えることができるでしょう。つまり、工学的な知が拡大していくのと同時に、これに対抗して、目的を問い返す知である人文社会科学もまた発展していったのです。そのなかで代表的な学問が、私も学び、探究してきた社会学でした。

社会における「価値」を追って

探究室 自由な学問としての社会学、ということですね。

吉見 たとえば、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、ちょうど19世紀から20世紀に変わる頃、「目的合理性」が世を覆っていくのに対し、社会学の使命は社会における「価値」を問うことだとして探究を続けていきました。もちろんこのウェーバーの思想にも後年さまざまな批判が加えられますが、社会学という比較的新しい学問の伝統は、まず何よりも出来事の当事者や社会にとっての意味や価値を問うことから始まったのです。

もちろん社会学には、アメリカに端を発した、より社会調査に重きを置き、統計を処理していくような、いわばデータ的な思考をおこなう流れも存在します。しかし、ともすればそうした手つきは、計算可能な合理性に囚われてしまいかねない面がある。意義深い社会調査が多く存在することを重々承知しつつも、私はあくまで「価値」や「意味」といった経験の根源的なレベルを考察するのが社会学の根本だと思っています。

探究室 なるほど。そうした脱目的的な知のありようとして、人文知のことも考えることができそうです。

吉見 ただ、「人文知探究室」で取り上げている知を「ヒューマニティーズ」(人文学)として捉えるならば、もうすこし異なる文脈も踏まえる必要があります。というのも、ヒューマニティーズは国民国家の成立と切り離せない関係にあるのですね。ナショナリズムが勃興していくとき、いわばその起源として見出されたのが、文化や教養です。ドイツ語でいうところのBildung、英語ならばcultureですね。

 ドイツであればゲーテやシラーといった文学、カントやフィヒテ、ヘーゲルといった哲学などの知識を身につけていることが理想化され、規範化されていく。イギリスであれば、シェイクスピアから出発せよ、ということになる。日本であれば、まずは夏目漱石や森鴎外を読んでおかないと、というわけです。人文学は、こうした近代国民国家の文化的正典が確立されていくなかで育まれてきた、ということができます。そのような人文学で中枢をなしていたのは、哲学と歴史学と文学です。これらはまとめて「哲史文」と呼ばれてきました。かなり最近まで、この3つの分野が人文学の中心を占めていたのです。

探究室 近代国民国家のフレームのなかで、ヒューマニティーズは確立されてきた、と。

吉見 そうです。近代の大学も、そしてその大学のなかで教えられてきた人文学も、近代国民国家というフレームを前提としていたのです。ですから20世紀になると、そうした人文学的な知のありようが無批判に継承されるのではなく、ナショナルな人文知の虚構性を批判的に暴くさまざまな学問が台頭してきました。人類学はその初期の牽引役だったと思いますが、1960年代以降はフェミニズムやポストコロニアリズム、そしてカルチュラル・スタディーズのような学問の潮流が次々に台頭していきました。カルチュラル・スタディーズの淵源が、ヒューマニティーズのお膝元ともいえるイギリスで、英文学に対する批判から出発していたというのも、象徴的ですね。

 私も長年、このカルチュラル・スタディーズに根差した探究を続けてきましたが、他方で近年、グローバリゼーションの加速度的な進行に伴い、カルチュラル・スタディーズが批判の対象としてきた近代国民国家のフレーム自体が揺らぎ、人文知の総体が苦しい位置に追いやられてきました。ですから、カルチュラル・スタディーズからすれば、批判してきた対象が弱体化してしまったのですね。現代社会の変容のなかで、従来の人文知が前提としてきた土台がほとんど通用しなくなりつつあるかもしれないのです。そうしたなかで、人文知とは何か──という難題への回答が、私たちに課されているのです。

探究室 にわかには答えが出せそうにありませんが……。

吉見 人文知にとって、価値の問題は重要です。私たちの社会の基本的な価値は、3年や5年では変わりませんが、30年、50年では根底から変わります。1960年代と、2010年代では、人々は根本的に異なる価値の軸を生きています。たとえば、私はよく「なぜソニーは、アップルが生み出せたiPhoneをつくることができなかったのか」という話をします。ウォークマンを世に送り出したソニーですから、技術の問題でもデザインの問題でもない。そこにあった差は、当たり前を疑う力です。家庭のステレオをポータブルにしたウォークマンと、電話のようでいてもはや電話ではないiPhoneとは、似て非なるものです。

 当たり前を疑うなかで、iPhoneは生まれている。それまで99%の人間が当たり前だと肯定してきた価値観や世界観に対して、残りの1%の立場から否を突きつけることができるのは、異なる価値のシステムを知っているからです。人文知は、そうした常識を問い返す際の根拠を提供してくれる知なのではないでしょうか。

探究室 当然とされている前提を疑う知だというわけですね。

吉見 典型的な例でいえば、人類学です。先進資本主義諸国の価値観が通用しないような社会にフィールドワークで入っていって、一見非合理的な社会を動かしている合理性を見出だしていく。その世界のロジックが、どのように成り立っているのかを分析していく。あるいは歴史学ならば、古代や中世、近世といった、今とは異なる時代、異なる社会で動いている合理性や論理性を探っていく。それは現在の目的に対して合理的であるということとは違って、異なる世界観に目を開かれていくプロセスが、今の自分たちを知らず知らずのうちに縛っているものから自由にさせてくれるということなのだと思います。

産業革命期の労働者たちに起こったこと

探究室 グローバリゼーションのお話もありましたが、今の私たちが生きている世界自体が激動の最中にありますよね。

吉見 現代社会が経験している地殻変動は、大きく分けて3点挙げられると思います。ひとつは、先ほども触れたグローバリゼーション。ふたつ目はデジタル化。最後は、人口構造の変化です。ここではひとまず、デジタル化のことを考えてみましょう。学生たちをはじめとした若い世代の間で、本当は思考を巡らせなければならない瞬間に検索に頼り、AIに答えを求める状況が広がっているのを、私も日々実感しています。自分で考えなくても、スマホを検索すれば瞬時に答えやいいアイデアを教えてくれるのです。まさにそのようにして思考する機会を失っていることは、人間という存在の危機だと思うのですが、実はこれとやや似た状況が、産業革命期の労働者たちにも起こっていたのです。

探究室 産業革命の時期の労働者ですか?

吉見 産業革命で人々が失ったのは、手仕事の能力です。19世紀イギリスで工芸運動を起こしたウィリアム・モリスにしても、20世紀に日本で「民藝」を提唱した柳宗悦にしても、批判したのは産業革命以降の効率化でした。高品質な品物の大量生産が機械技術によって可能になる。それは人々の労苦を減じもするでしょうが、手仕事に携わるからこそ育まれていた手わざの豊かさは、駆逐されます。

 そして、同じことはAIによっても起こり得るのです。AIは、私たちが自分の力で思考することを不要にします。つまり、人文知など何も知らなくても、AIが人文学の先生たちが期待するであろう答えを教えてくれる。だからもう、時間をかけて人文学を学ぶ必要はないと思われていくのです。実際、AIによる自動翻訳の効率と能力が上がりましたから、もう語学を学ぶ必要はないと大っぴらに言う人が増えています。これは、人文知にとってかなり大きな危機です。

探究室 テクノロジーが生み出すものもあれば、失わせるものもある、と。

吉見 以前、『「声」の資本主義』(講談社、1995年)という本を書いたときに触れたのは、ラジオが普及していくときの作家・永井荷風の拒否反応です。荷風は、ラジオの音に覆われていく昭和の東京において、その音によってかき消されてしまうものを聞くために街を徘徊しました。我が家では猫を飼っているのですが、猫のほうが人間よりもよほど耳がいい。微かな物音に気づいて、ダーッと窓のほうに向かっていくので何事かと思ったら、ベランダに小鳥がやって来ているなんてことは日常茶飯事です(笑)。猫の特性や能力は置いておくとしても、私たち現代人は荷風的=猫的な“耳”は、既に失っているのではないでしょうか。

目的地を最短で行かないことの価値

探究室 「街歩き」は、吉見教授が近年注力している実践でもありますね。

吉見 広い道と狭い道があれば狭い道を、まっすぐな道と曲がった道があれば曲がった道を、平らな道と上り下りがある道ならば上り下りがある道をゆけ──これらは街歩きの三大鉄則です。目的地に最短距離でアプローチしようとすれば、途中のプロセスが手段化され、“経験”となりません。ナビゲーションのアプリを用いながら目的地に到着しても、どこをどう通って来たのか、途中にどんな風景があったのかも自分では思い出せない、なんてことは皆さん身に覚えがあるのではないでしょうか。

探究室 ナビに導かれる利便性のもとで抜け落ちるものは、たしかにありますね。

吉見 脇道に逸れ、ときに何か失敗もして、さまざまな“経験”を積み重ねるなかでこそ新たな発見もあるわけです。そうでなければ、99%の人が当たり前だと思っているものに対して別様の「価値」を提案することなんてできるはずがありません。度々言及しているAIは、脇道に逸れることができません。しかも、AIは身体性を持ち合わせていないという弱点があります。私たちが歩くときに足の裏で感じる微妙な道の傾き、そうした身体性のもとに把握する世界のありようは、AIが把握する情報空間の埒外にあるものです。人間だからこそ可能な、価値創造的な街歩きというものがあるわけですね。

探究室 おっしゃることはとてもよく理解できます。と同時に、たとえば近年インターネットやSNS上で見知らぬ土地を歩くときに用いられる「ディープ」というような表現は、差別や偏見を内包しかねない、ということも気になります。人文知の探究の端緒であるはずの街歩きはそうした危うい視点にもつながりかねないわけですが、しかし吉見教授が常々おっしゃってきたように、近代的な観光というものは、そうした消費的なまなざしと切り離せないものでもあります。先ほど触れた人類学にしても、自分たちを相対化したいがために他の社会を知的に消費してしまう危険性は、いつも秘めていますよね。

吉見 もちろん人類学も、さまざまな自己批判を繰り返してきました。19世紀から20世紀にかけて、〈未開社会〉とされる場所に人類学者が足を運び、こんな変わった風俗や文化があるのかと驚くまなざしに、実は人種主義的な差別が入り込んでいたということに対しては、現在に至るまで批判的な検証が繰り返されてきています。

 観光においてもそうしたまなざしは本来的に組み込まれてはいるわけですが、しかし植民地主義に対するポストコロニアリズムも踏まえてきている21世紀の私たちは、そうした危うさをなんとか回避しながら観光をおこなう努力ができるはずです。観光者は、まなざしを向けると同時に、まなざしを向けられてもいるわけなのです。その地域の住民、立ち並ぶ店やそこで働いている人々からもまなざしを向けられているし、たとえば近年増加している外国人労働者からのまなざしもあるだろうと思います。私たちが観光するとき、まなざしは双方向的だということを忘れてはならないでしょう。

探究室 まなざしを向けるとき、人はまなざしを向けられているわけですね。

吉見 実はそのようにまなざしを私たちに向けてくる他者というのは、人間だけではありません。地域や自然が私たちにまなざしを向ける、という視点の転換がある。そしてそれこそが、街歩きや観光における重要な要素のひとつだと思うのです。

探究室 地域や自然、ですか?

吉見 たとえば坂、谷、川などですね。近代的な視線であれば、そうした地域や自然を人間が対象化してきたわけですが、しかしむしろ、そうした地域や自然が人間にまなざしを向ける、ということがある。風景のなかに佇む、といった境地は、こうしたまなざしに人が自身を晒す、ということなのではないでしょうか。歴史上のさまざまな文学者が、こうしたまなざしの前に自らを置いてきました。人里離れた場所に庵を結んで静かな生活を送りながら世を眺め、『方丈記』を著した鴨長明にしても、あるいは東北や北陸を旅して『奥の細道』をしたためた俳人・松尾芭蕉にしても、彼らが体感していたのは地域や自然からまなざしを向けられる経験であり、その経験を言葉にしてきたのだと思います。こうしたまなざしの転換に、人文知の今後を占う手がかりがあるのではないでしょうか。

人文知探究室後記

 吉見教授の研究室にはたくさんの本が並んでいる。奥行のある書棚に縦置きと横置きとを駆使して、背表紙の書名が見えるように、しかし整然と並んでいる。きっと頭の中も、このように知識が並んでいるのだろう。研究者や学生らの、さまざまな問いに、知識の書棚から、すっと、答えを出す。もちろん整然としていなければ、膨大な知識を動かすことはできない。研究室の本の知識とてごく一部。外からの知識を基底に思考を繰り広げて創造された知もある。内外の知を往還して新たな知を生成するシステムは頭の中でどのように動いているのだろうと、思わずにはいられなかった。垣間見ることができるのは、近著『自己との対話:社会学者、じぶんのAIと戦う』(集英社新書、2025年)かもしれない。AIと対峙する吉見教授を、どこかで見つめている吉見教授。読み間違えているとは思うが、気になるのはAIとの対話よりも、吉見教授と吉見教授による対話。その問いと答えの連なりが「人文知」を生み出すのかもしれない。

人文知探究室 千家慶子

人文知探究シリーズ 第8回は「人文知とは、モノから始まる」>>

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