人文知

人文知とは、モノから始まる ― 人文知探究室✕井上洋一・奈良国立博物館 館長 / 國學院大學大学院兼任講師 

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 ありとあらゆる“モノ”に囲まれて、私たちは暮らしている。むしろ私たち一人ひとりのあいだには、ほぼ必ず“モノ”が横たわっているといってしまってもいいかもしれない。モノを見つめるということは、私たちが生きる世界を再考することでもある。過去の人々が手にしてきたモノであれば、そこにさらに時間という厚みが加わってくる。だからモノからはじまる「人文知」は、限りなく日常的で、深遠でもある。

 近年注目が集まる「人文知」の可能性を、國學院の学内から再発見していく企画、人文知探究室。ジャンルを横断しつつ、多様な専門家に問いを投げかけるインタビューシリーズの8人目は、学外に問いを求め、奈良国立博物館館長を務める井上洋一氏(國學院大學 昭60修・93期博後史ほか)を訪ねた。モノを扱うプロフェッショナルが集い、広く人々に展示する場としての博物館。そして、歴史の薫りに満ちた奈良の地。そんな土地でおこなわれた人文知をめぐる語らいは、ひと味違うものとなった。

やさしくなれる博物館へ -奈良国立博物館の取り組み-

探究室 人文知についてお話しいただくためにも、まず奈良国立博物館がどのような性格をもつ場なのか、改めてご教示ください。

井上 人文知という今回のテーマにも関わることとして、まず近年の奈良国立博物館の取り組みからお話ししたいと思います。奈良国立博物館、通称奈良博は、明治28(1895)年に開館し、令和7(2025)年に130年を迎えました。私は約40年にわたり東京国立博物館に勤務し、副館長を務めた後、令和3(2021)年に奈良博の館長に就任しました。このような節目の年に奈良博に身を置く者として、改めて自分たちの立脚点や果たすべき役割を見つめ直す必要があると考えました。その思いから、次の130年を見すえ、「新奈良博宣言」を発表しました。

 「豊かな自然・歴史・文化を育んだ『なら』の魅力を広く国内外に発信し、その真価を未来に伝えて行く」「仏教美術研究の拠点となり、地域や世界の人々の学びに貢献する」「『やさしい』博物館を超えて、誰もが『やさしくなれる』場所となる」という三か条からなる宣言です。私にとって奈良博は、かねてより「静かなる仏教美術の聖地」ともいうべき存在でした。そのような場所の館長に自分が任命されるとは思ってもみなかったのですが、このありがたいご縁をいただいたことを受け、職員と共にこの宣言をまとめました。この宣言は、伝統に根ざしながらも革新を取り入れ、新たな挑戦を続けていこうとする奈良博の決意の表れでもあります。

探究室 伝統と革新ですか。

井上 はい。まず開館以来130年にわたり、先人たちが守り、育んできた奈良博の伝統を、私たちはしっかりと受け継がなければなりません。奈良の自然・歴史・文化の重みには改めて目を見張るものがあります。地元の方々は奥ゆかしく、その価値を前面に出して語ることはあまりありませんが、そうした土地で育まれ、受け継がれてきた文化財の価値を、確実に次の世代へと手渡していくことが重要です。そしてそれは、地域のみならず世界の人々の学びに貢献することにもつながっていきます。

 また、博物館として来館者にホスピタリティを提供するだけでなく、訪れた方々自身が「やさしくなれる」場所でありたいと考えています。奈良博を訪れることで、単に知識が増えるだけでなく、多様な気づきや感性への刺激を受け、心が豊かになっていく──そのような場所を、どのように実現するかが重要です。このように、伝統を受け継ぎながら革新を模索していく姿勢は、本インタビューのテーマである「人文知」にも深く関わっているのではないかと考えています。

異なるもの同士の対話にはモノが重要になる

探究室 なるほど。ではゆるっと本題に入っていきますが、井上館長の観点からは、人文知にかんしてどのようなことをお考えになるでしょうか? ご自身のお立場としては、青銅器文化を中心に日本考古学をご専門とされ、同時に博物館の運営に長年携わるなかで博物館学を探究し、海外での発掘調査などにも多く参加されてきたわけですが。

井上 実際に「人文知とは何か?」と正面から問われると、人生でそんな質問をされたことがないな……と考え込んでしまいますね(笑)。もっとも、私自身のこれまでの歩みを振り返ると、人文的な倫理性については常に意識しながら仕事に向き合ってきた面もあり、思い当たることはいくつかあります。

 あえて言葉にするならば、この世界には多様な人々が生きており、その立場や価値観の違いを超えて対話をしていくための知のあり方こそが、人文知の根幹にあるのではないでしょうか。そうした対話を支えるためには、多種多様な概念を言語化し、共有できる知が必要になります。また、過去の人々が積み重ねてきた歴史を振り返ることも重要です。それは、私たちが生きる世界の構造を理解し、問い直す営みであり、異なる立場にある人々同士の対話の基盤を形づくるものだと考えています。そして、私としては、こうした人文知において、博物館が扱う文化財、すなわち“モノ”が、大きな意味をもっているはずだと考えているんですね。

探究室 たしかに博物館とはモノを扱う場であるわけですが、そうした営みのなかで人文知について考えうることがあるということでしょうか。

井上 そうですね。たとえば、いま目の前にあるペットボトルほどの大きさの出土品や文化財が見つかったとしましょう。あるいは既に知られているモノを改めて見直す場合でも同じですが、私たち専門家が行うのは、その対象をさまざまな角度から徹底的に観察し、考え抜くことです。たとえば、「あれ、ここに傷がある・・・おそらく使用痕だ。当時はこんなふうに使われていたのではないか」といった具合に、目の前のモノから過去の使われ方や状況を読み解いていきます。

 考古学者は「見てきたように嘘をつく」と揶揄されることがありますが(笑)、決して嘘をついているわけではありません。自分が生きていない時代のモノを扱う以上、慎重かつ精密な観察が求められます。あたかもその時代を直接見てきたかのように推測するのは噓ではなく、最も確からしい結論にたどり着くためです。そのためには、目の前のモノから手がかりや情報をできるだけ引き出すことが必要です。

多角的に、多面的に見ることで考える

探究室 おっしゃるようなモノへのアプローチが、人文知へとつながっていくというわけでしょうか。

井上 そういうことなんです。私たち考古学や博物館学に携わる者は、くだけた表現をしてしまえば“モノがあってナンボ”の世界で生きています。そのなかで、ひたすらモノを見つめることで、そこから透けて見える人間の営みを深く考えていくのです。モノを徹底的に観察し考えるということは、そのモノと共に生きていた人間を理解することにつながります。そして、当時の社会のあり方を再構築することにもなる。つまり、この作業は、人文知の根源に迫る行為だと言えるのではないかと思います。

 その際に特に重要なのが、「多角的に見る」、ということです。モノを中心に置き、その多面性を丁寧に掘り下げていく。この姿勢は、モノに対してだけではなく、人間についても同じように行うべきだと思っています。

探究室 モノと同様に、人間も多角的に見る、と。

井上 そのモノが何であるかわからないからこそ、私たちはさまざまな角度から観察します。人間についても同じことが言えます。この対話の場のように、初めて顔を合わせてお話するときでも、自他の違いを認識しながら言葉を交わし、受け止め合うわけです。後日再び会えば、また別の側面が見えてくるでしょう。飲み屋でくだけた雰囲気のなかで話せば、違った一面が見えてくるかもしれません(笑)。

 そして、ひとりの人間は、必ず何らかのグループに属しています。ある人のことを多角的に見ていくと、その人が属するグループのあり方も見えてきます。さらに複数の人を同様に捉えていくことで、それらの総体としての社会像が徐々に浮かび上がってくるのです。

探究室 ひとりの人の多面性を丁寧に見ていくことが、やがて社会のさまざまなあり方を見つめることへと連なっていくわけですね。

井上 このように考えてみると、考古学や博物館学は、私たちが生きる現代を捉え直すための方法に結びついているのではないでしょうか。現代の価値観や世界観を相対化し、異なる者同士の対話の基盤となる人文知の根源には、モノや人、社会の多面性を丁寧に観察する姿勢があるのではないか、と考えられます。

見つめて再定義することで見えてくるもの

探究室 お話から思い出したのは、奈良博で近年2月~3月の名物企画となっている「お水取り」展です。東大寺二月堂で1300年近くつづく「お水取り」(=修二会〔しゅにえ〕)は、3月頭から2週間、練行衆と呼ばれる僧侶たちが我々の代わりに世の過ちを懺悔するとともに国家安寧を祈願する仏教行事ですね。そのなかで読み上げられる「過去帳」(東大寺や修二会、二月堂にゆかりや関わりのある人々の名を、時代を追って書き連ねたもの)には偉人らの名にまじって、女人禁制の場であるはずなのに「青衣女人」と書かれている。かつて過去帳を読み上げていたとき、自分の名が読み落とされていると姿を現したのが「青衣女人」だという逸話があるとのことで、私たち現代人はジェンダー的視点から読み解くこともできるわけですが、モノがモノとしてそこにあり、問いとして機能するのが大変興味深い展示だと思いました。

井上 そのようにご覧いただけたのであれば、博物館としてはありがたい限りですね。来館者のさまざまな見方が生まれる前提として、学芸員を中心とした私たちが、モノから何を読み取り、何を引き出すかが、重要になります。そして、その力が情報化社会のなかでどのような位置を占めるのかについても、考えていく必要があります。

 極端な意見としては、「AIがあるのだから、モノをめぐる情報整理もAIに任せればいいじゃないか、博物館の学芸員なんてもう要らないんじゃないか」という声もありそうです。たとえば、次にこういうテーマで展示をしたいと入力すれば、AIはモノの選定から展示の構成まで提案してくれるでしょう。しかし、現時点ではAIにはできないことがあると、私は感じているんです。それは、モノの意味を“再定義”するということなんですね。

探究室 モノの意味の再定義、ですか?

井上 はい。というのも、AIが提示してくれるものの背後にあるのは、これまでに存在してきた情報だけだからです。過去の情報をもとに、それをあたかも新たな知識のように提供してくれるにすぎません。もちろん、現代を生きる私たちは情報の渦のなかにいるので、そうした情報を整理し、ひとかたまりの提案をしてくれるだけでもありがたいと言えるでしょう。しかし、それだけでは新たな知の創出はあまり期待できません。私が「モノの再定義」という言葉で伝えたいのは、知の再構築や新たな価値の創出のことなのです。

 あえて言えば、人文知とは「価値の創出」に関わる知である──そのように言えるのではないでしょうか。私たち人間は誰しも、価値の創出者でありうる存在であり、そのようにあること自体が喜ばしいことでもあります。その際に重要となるのは、モノがもつ根源的な意味合いを見つめ、再考しながらその価値を抽出していくことです。こうした営みは、博物館で日常的におこなわれているものであり、大いに参考にしていただけるのではないかと思います。そして何より、その営みを担っているのは学芸員だけではありません。来館者の皆さんこそが、モノの多様な意味を見つめ、そこから価値を見出しているのです。

探究室 なるほど、共に同じモノを見るなかで、多彩な角度での発見や発想が生まれていきそうですね。とはいえ、新たな価値や意味の創出ということを考えるとき、虚実さまざまな情報が生み出され、入り乱れる現代の様相も鑑みると、若干の懸念も抱きます。

井上 たしかに、解釈には、責任が伴います。とりわけ、モノを見る専門家である私たちの責任は重大であり、その重みを改めて認識する必要があります。私たちの推測は展示に反映され、その展示を見た来館者の皆さんが「このモノはこんなふうに使われたのかな」「当時はこんな社会だったのだろうか」と思考を巡らせることになるからです。だからこそ、その責任については、常に自問自答し続けなければなりません。インタビューの冒頭で、これまで人文知について明確に考えてこなかったとしても、実践のなかで人文的な倫理性については考えてきた、と申し上げたのは、このような背景があるためです。

知の「愉しさ」に連なる喜びのために

探究室 新たな価値の創出と、それに対する責任は、ワンセットというわけですね。

井上 実は考古学は、ある発見によって定説が容易に覆されうる学問でもあります。モノや時代に対する評価は、新たな発見や洞察によって絶えず更新されていきます。それはこの学問が抱える、ある種の危うさであると同時に、尽きせぬ魅力でもあります。だからこそ虚心坦懐に、目の前のモノに真摯に向き合うという姿勢を常に意識しなければなりません。

 そのうえで博物館学の立場からつけくわえるとすれば、展覧会を開催する際には「いま、なぜこの展覧会を行うのか」という問題意識に基づいて構成が考えられます。そのため、展示されるモノの選び方は変わり、同じモノであっても、その意味合いは展示ごとに変化します。いわば、モノにはキャスティングと演出があるのです。そして、そのような営みにおいて果たされるべき責任は、人文知の核心に関わるものだと言えるのではないでしょうか。

探究室 お話をうかがえばうかがうほど、モノから考える人文知は、いまの時代の危機や困難とも向き合っていくものなのだと痛感されます。

井上 実は私自身、とても辛い思いをしたことがあります。学生時代からシリアのテル・マストゥーマという遺跡の発掘調査に携わり、また約3000年前に建てられたアイン・ダーラ神殿の保存修復プロジェクトにも参加してきました。しかし、この神殿は2018年にトルコ軍の空爆によって破壊されてしまいました。また、IS(イスラム国)によって多くの貴重な遺跡が次々に破壊されました。私が大変お世話になった、パルミラ国立博物館の元館長であり考古学者のハレド・アサド氏は、シリア内戦下でパルミラ遺跡や文化財を守ろうと尽力された方です。彼は、隠された遺品の在りかを明かすようISから迫られても屈せず、2015年に公開処刑されました。その報に接したとき、私は胸が張り裂ける思いでした。

 こうした悲劇を経験するなかで、私は物事を一方向からではなく、多角的に捉えることの重要性、すなわち民主主義に基づく教育の必要性を強く実感するようになりました。モノを破壊し、抹消することは、そこに積み重ねられてきた歴史や文化を否定することであり、モノを起点とした対話の可能性を断ち切ってしまいます。いま、モノと人文知について考えることは、このような破壊や分断が現実に起きている時代と向かい合うことにほかなりません。

探究室 そのような時代にあって、ICOM(国際博物館会議)による博物館の定義のなかに、「教育、愉しみ、省察と知識共有のための様々な経験を提供する」とあるのは印象的です。ここまでの議論にひきつければ、世界の困難と向き合う知において、「愉しみ」にも重きが置かれているわけですよね。

井上 博物館は、モノの宝庫であり、同時に、「モノからはじまる知」の宝庫でもあります。そこは訪れる人の心を躍らせ、新たな世界を構築する手がかりが潜む場所です。言い換えれば、他者を知ることの「愉しさ」に開かれた場所だと言えるでしょう。そして、 人文知における新たな価値の創出というテーマも、この「愉しさ」と切り離せないものだと言えるでしょう。

 一方で、その「愉しさ」から取り残されてしまう人がいないか、アクセシビリティが十全に確保されているかという点も見落としてはならない重要な視点です。「新奈良博宣言」に掲げた、「『やさしい』博物館を超えて、誰もが『やさしくなれる』場所となる」という言葉には、そうした思いが込められています。

探究室 異なる人々が知の「愉しさ」ゆえに連なりゆくのは、そう簡単なことではないとは思いますが、しかしたしかに、人文知に残された可能性だとも感じます。

井上 そうですね。モノに端を発し、多角的な視点を通じて新たな価値を創出する人文知とは、その過程で生まれる問いを人々と共有していく営みである、と言えるでしょう。

人文知探究室後記

 のんびりと佇む鹿たちの間を抜けていった先にあったのは、モノを通じて歴史と、そして世界と静かに対話する空間だった。 当たり前の話かもしれないが、ところ変われば、人文知のありようも変わる。奈良という土地に流れてきた、長い時間を懐に抱えた博物館は、小さなモノの先に大きなスケールの発見をもたらしてくれるような場だった。 自分の外にあるものを知ることが人文知的な営みなのだとすれば、人々が昔から”旅”をしてきたということもまた人文知の観点から捉え直すことができるかもしれないし、文化の伝来も含めて長い”旅”を経てきた日本仏教美術の作品を見つめることもまた、必然的に人文知につながる営みなのだろう。再び鹿の間を縫いながら奈良の地を後にしつつ、そんなことを考えていた。

人文知探究室 宮田文久

人文知探究シリーズ 第1回は「人文知とはデータを実感できる想像力」>>

お話を伺った方

井上 洋一

奈良国立博物館 館長 / 國學院大學大学院兼任講師

井上 洋一(昭60修・93期博後史ほか) 研究分野:日本考古学・博物館学 活  動:令和3年4月1日、奈良国立博物館館長に就任。専門は日本考古学、博物館学。主に日本の青銅器文化の研究に取り組むとともに、ユネスコ「世界の記憶」国内案件に関する審査委員会委員、日本博物館協会参与として、さまざまな文化財保護や博物館活動にも参画している。

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