「野矢茂樹」と聞いて、ベストセラー『論理トレーニング』の著者を思い浮かべる人は多いだろう。だが本人は、その「論理の野矢茂樹」という呼ばれ方は、心外だと笑う。

前編で語られた「眺望論」と並ぶ、野矢哲学のもう1つの柱が「相貌論」だ。そして今年8月、野矢はその先で、「すべてが決定されているなら自由は失われるはずだ」という長年の難問に、1つの答えを出した。
鍵になったのは、眺望論を「空間」から「時間」へ応用する発想だったという。ウィトゲンシュタインへの応答から、決定論の罠を解く「時制」の哲学まで――半生をかけて紡がれてきた野矢哲学の軌跡を、後編で追う。
哲学の広大な領土をじわりじわりと這ってきた──野矢茂樹・前編
「論理学」シリーズは芸人根性の賜物
──野矢先生は『論理学』(東京大学出版会)や『論理トレーニング』(産業図書)をはじめ、論理学の入門書や教科書を数多く書かれています。これらの仕事は、先生の中でどう位置づけられているのですか。
野矢 最初に出した本が『論理学』ですからね。恐れを知らないというか。
ただ、論理学関係のものは、自分の哲学とはまったく別物です。私は、大学で学生を相手に授業をするのがけっこう好きなんですよ。北海道大学、東京大学、立正大学と教えてきて、場面も自分の年齢も違うから、それぞれ感触は違ってそれがおもしろい。
東京大学で論理学を担当したとき、自分は論理学の専門家じゃないから勉強しながら教えたんですが、正直つまらない学問だなと思った。「Aである。AならばBである。だからBである」なんて聞いて感心する学生は一人もいませんよね。
──「私は人間である。人間ならば死ぬ。だから、私は死ぬ」、と言われてもそりゃそうだ、となるだけだと。
野矢 論理学を学んだって論理的にはならない。ジョン・ロックも、三段論法なんか学んでも論理的にはならないと怒っていましたけど、その通りなんです。
大学の授業は、役に立つかおもしろいかのどっちかじゃないとダメだと思っていたので、じゃあ東大生がおもしろがるように工夫してやろうと。講義ノートを入念に作って、哲学的背景とともに論理学を解説するという授業をしたら、結構おもしろがってくれた。
これはもう、目の前の学生におもしろがってもらおうという芸人根性ですね。その成果としてできあがったのが『論理学』です。
──なるほど。それであの本には、哲学史的な背景に関する記述が時折差し込まれているんですね。
野矢 ところが成城大学の非常勤で同じ内容をやったら、全然ウケない。学生は減っていくし、出席してもよく寝る。
──あらら。どうされたんですか?
野矢 自画自賛ですけど、私はとても偉い教師なので(笑)、学生が悪いとは思わない。私が悪いと思う。おもしろいと思ってもらえないなら、今度は「役に立つ論理学」で組み立ててみようと。それが『論理トレーニング』になっていきました。
立正大学でも、学生さん向けに工夫したものが『まったくゼロからの論理学』になった。
じつは『論理トレーニング』は出した当初は全然売れなかったんだけど、半年か1年後くらいに火がついたように売れ始めて、一種の社会現象のようになった。いまだに増刷されている化け物のような本ですが、あれは本当に汗をかいて作った本で、あんな大変な作業は二度とできません。
──収録されている例文の数々を見ると、さぞや大変だっただろうと推察されます。
野矢 図書館や書店に行って、新書レベルの本とかをパラパラパラパラ見るわけですよ。「あ、この本は接続詞が多いぞ」って。まず、接続詞が多いかどうかを1つの目安にするんです。いろいろと多彩な接続詞を使っていると、「これは脈がありそうだ」と判断するわけですね。
──「A、つまりB」は「A=B」、「A、そしてB」は「A+B」など、接続詞による文章の関係から、議論の構造を読む作りの本ですものね。
野矢 その頃はまさに、自分のアンテナが『論理トレーニング』モードにチューニングされている状態なんです。そうすると、新聞を読んでいるときでもおもしろい例が目に飛び込んでくるようになります。
たとえば、私がとても気に入っているのは朝日新聞の記事なんですけれど、「清潔志向が行き過ぎてダメだ」という主張の中で、「実は小便はそんなに汚くない」と書いてあったんですね。「おまえ、何言ってるんだ」と(笑)。
「清潔志向が行き過ぎているのがよくない」と言いたいなら、「多少汚くてもいいじゃないか」と言わなくちゃいけないのに、「小便はそんなに汚くない」と論点をずらしてしまう。「それじゃ方向が違うよ」というツッコミどころを見つけたときは、本当にうれしかったですね。
──哲学の執筆とは、使う「脳みそ」がまったく違いそうですね。
野矢 まったく違います。でも、おもしろい例文が見つかったときは「おお、使えるぞ!」とうれしかったですし、読んでもおもしろく、ためになる内容を出そうとしていました。
ただ、いくらブームになったからといって「論理の野矢茂樹」と思われるのは大変心外で、「専門は哲学です」と言いたいところなんですけれどね(笑)。

相貌論──心と世界を分かつものは何か
──では野矢哲学における2本の柱、「眺望論」については前回伺いましたが、「相貌論」についても改めて教えてください。
野矢 相貌論の出発点となったのは、ウィトゲンシュタイン※が書いた『哲学探究』第二部の内容です。
※ウィトゲンシュタイン(1889〜1951):オーストリア・ウィーン生まれの哲学者。生前に刊行した唯一の哲学書『論理哲学論考』(独語版1921年、英訳1922年)と、没後の1953年に刊行された『哲学探究』という、内容・方法ともに大きく異なる前期・後期の2つの主著で知られ、20世紀の分析哲学に決定的な影響を与えた。なお『哲学探究』の原著第4版では第二部に“Philosophie der Psychologie―Ein Fragment”(心理学の哲学――断章)というタイトルが付されている。
完成度も低い、よくわからないパートなんですけど、長年、原書で読書会をやっていました。その中心的な話題の1つがアスペクト論というもので、有名なのがアヒルとウサギの反転図形です。

あの反転図形を見ている人に「君は何を見てるの?」と聞いたとしましょう。その人が「これだよ」と言って、反転図形の正確な模写を見せたとしたら、それをアヒルとして見ているのかウサギとして見ているのかは聞いた人には相変わらずわからないですよね。
この反転図形を「アヒル」というアスペクト(見方)として見ていることを示すには、羽を描き足すとか水辺を描くとか、その図形が置かれる文脈を示さなくてはいけない。私はその文脈を、図形が位置づけられる「物語」と呼んで、どういう物語に位置づけられるかで「アヒル」という意味をもったり「ウサギ」という意味をもったりするんだと考えました。
この例でいう「アヒルとして」「ウサギとして」という「アスペクト」を、私は「相貌」と呼んだわけです。こうした相貌は一人一人で別の見方に「発散」する場合もあれば、ある集団に「共有」されている場合もあります。
たとえば、この腕時計が時計だというのは、いまの我々なら誰もが同じ意味を見て取りますよね。

平安時代の人に見せたら「何それ」でしょうけど。ところが、これが私の父の形見だとすると、その意味づけは他の人にはない。時計屋で買って時間を測る、というみんなと共有する物語に位置づけられている限りは共有された意味をもつけれど、父の形見という個人的な物語は私だけのものです。
つまり、時計という相貌で見るのは私もみなさんも同じだけれど、私にとってはそれに加えて「父の形見」という個人的な相貌をもっているわけです。
我々が世界に与えている意味は、部分的に共有され、部分的に発散している。そこで、個別に発散している部分を「心」と呼び、共有されている部分を「世界」と呼ぼう、と。

これが、内と外に分けずに心をとらえようとする私の基本的なアイデアなんです。
──相貌が共有されている範囲というのは、いろんなケースが考えられるのではないでしょうか。
野矢 そうです。私自身は無神論者ですが、信じている人にとっては、自然現象ですら私とは違う相貌で現れてくる。それは共同体の外とは共有できない。
そう考えると、心は個人に収まる場合もあれば、ある範囲の共同体に収まる場合もある。そうやって、わりと伸び縮みするものとしてとらえられるんです。「あの人たちの心はね」という言い方もできるのかもしれません。
──そうした、個人的な相貌から公共的な相貌までをグラデーションでとらえるようになったのはいつごろからでしょうか。
野矢 昔のものを読み直していないのでわからないんですけど、『心という難問』(2016)でははっきりそうなっています。
大森先生がある論文集の序文で、「以前の論文と重なるところもあるだろうけれど、走り高跳びの選手が少しずつバーを上げていくような形でしか自分は哲学をすることができない」というようなことを書いておられて、その通りだと思うんですよね。
日本の哲学者は謙虚というか遠慮がちで、「この点については別の本で書いたので、そちらを読んでいただきたい」というふうに処理して、繰り返しを嫌う人も多い。
でも、前に考えたことも、新しい考えが加わると、まさに相貌が変わってくる。だから変質させながら、プラスアルファした全体を提示していけばいい。というわけで、『心という難問』には、それまでの足跡も詰め込んだように書いています。
もちろん、『心と他者』には『心と他者』ならではの部分もあるので、まだ読む価値はあると信じてますが。
失楽園から始まる哲学の深淵
──先生の本を読んでいると、たとえば「富士山を見る」と言うとき、心の中に富士山があるのではなく、そこに富士山があるんだ、といった我々の「日常の実感」を哲学的にすくい取ろうとされているように感じます。
野矢 まったくその通りなんだけど、そうとは言い切れないところもあるんです。
たしかに私は「常識を壊して新しいものの見方を提出する」という目標はもっていないんですね。いつも出発点は、失楽園的な経験なんです。

日常を何気なく生きていたのに、ふとした瞬間、立ち止まって考えると、「どうしてコレが成り立っているんだろう」というところに突き落とされてしまう。
たとえば、「あの人、痛がっているけど薬をあげようか病院に連れて行こうか」という日常の出来事について「本当に痛いのかな」なんて考えたら人間関係を損ねますよね。でも心を内面に収めてしまうと、「他人の痛み」ということが謎めいてきて、どうしてそんなふうに何気なく暮らしていけるのかがわからなくなる。
──日常を何気なく生きられている心地よい「楽園」状態が失われてしまう、と。
野矢 そこから、もう一度這い上がろうとするのが私の哲学の基本なんです。
ただ無傷で這い上がれるかどうかは別問題です。日常の実感どうしが衝突していることがあるんですね。
この時計が見えているのは、時計から光が来て、網膜で電気信号に変わって、脳が時計の像を映し出しているからだ。そういう、実物と像を分ける二元論的な実感は根強い。
ところが「じゃあ実物の時計はどこにあるの?」と聞くと、誰でも「ここにあるよ」と言う。でも「ここ」にあるのは人が知覚したイメージの時計のはずです。ならば実物はここじゃないどこか別のところにあることになる。私たちの何気ない2つの実感はここで衝突しているんです。
自由もそうで、どうせ自然法則に従うしかない、なるようにしかならん、という実感をもつ人もいる。と同時に、自分は自由に行為できるという実感もある。その2つの実感が折り合うのかどうかもよくわからない。
──今まであたりまえだと思っていた自分の感覚が不完全なのではないか、という疑念が忍び込む。
野矢 たいていの人はそこまで深く考えずにその不安定さから逃げるけれど、こっちは本能的・職業的に向き合ってしまう。そして戻っていくときには、衝突している実感のどこかを切り捨てて、どこかを残すことになる。
その意味では、『心という難問』で出した最終的な描像は、かなり日常的な実感から離れたところに到達した気さえしています。
『自由への哲学的探究』は、執筆しているときには日常的な実感に寄り添っているつもりだったのですが、いまでは自分の提出した行為論・自由論はいい意味でけっこう常識外れなところに着地しているのかもしれないという気にもなっています。自分の書いたものの価値を改めて感じているというか。

ウィトゲンシュタインへの応答
──先ほど名前の挙がったウィトゲンシュタインですが、野矢先生は『論理哲学論考』を岩波文庫で翻訳し、さらに『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(哲学書房、現在ちくま学芸文庫)、『ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』という戦い』(岩波書店)も書かれています。それだけ大きな影響を受けたということでしょうか。
野矢 大きいですね。大森先生には「ここは先生とは違う方向に行く」というところがあるんだけど、あまり言いたくないことですが、ウィトゲンシュタインには「これは間違っている」と思えるところが見当たらないんです。まあ、はっきり物を言わない人だから、なんとでも読めるということでもあるんですけど。
『論理哲学論考』はウィトゲンシュタイン自身が、のちに間違いを認めている著作だから、そのまま受け入れるわけにはいかないけれど、『哲学探究』のほうは、批判的に読むというよりは、とにかく自分が汲み取れるかぎりのものをここから汲み取ってやろう、という感じですね。
『哲学探究』は短い断章が並んでいて、ウィトゲンシュタイン自身がコミットしていない、ひっくり返したいような見方や考え方を試しに置いていたりする。だから自分に都合のいいところだけつまみ食いすると、たいていのことが言えちゃうんです。
そこで自戒も込めて「それじゃいかん」と思って、ちょうど鬼界彰夫さんの新訳も出たところだったので、ある程度のスピードで通読してみた。そうしたら「あ、読めるぞ」と。
それで、少なくとも第一部の全貌が見えるようなものを書いてみたいと思って、もう一度『哲学探究』の中に分け入って書いたのが『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』です。
自分の問題に裸一貫で向かっていく楽しみとは別に、テキストを読み解く楽しさというものがあることを実感しました。カント研究者やアリストテレス研究者は、この楽しみに耽っているんでしょう。
──相貌論を深めていくうえでも、ウィトゲンシュタインの存在は大きかったのでしょうか。
野矢 いや、深めていくときには、そんなに大きくないですね。最初のインスピレーション、つまり出発点は『哲学探究』第二部にあるけれど、そこから先は、「自力で歩いたぞ」という感じです。
他の哲学者の著作もある程度は読んでいますけど、私は文献を網羅して論文を書くような仕事の仕方はしていないんです。できないというか(笑)。
なんなら本を読んで、そこに答えが書いてあったら「つまんないな」と思っちゃうくらいで。とにかく自分の頭で考える。それが誰かの言っていることでも構わないし、プライオリティを主張しようとも思わない。
自分自身でそれを考えた、ということが大事なんです。「この人があなたと同じことを言ってるよ」なんて教えてくれる人もいますけど、まああまり気にしない。
自由の正体を追いかけて
──改めて哲学の話に戻って、今年8月に刊行された『自由への哲学的探究』(岩波書店)について伺います。『野矢哲学に挑む』(2024)の時点では、自由の問題は難しいと書かれていましたが。

野矢 あのときはまだ本の執筆に着手していませんでしたからね。難問として立ちはだかっていました。
『哲学・航海日誌』の頃に行為論に関心をもっていろいろいじったんだけど、それ以降は新しいアイデアも出なかったので、放っておいたという感じでした。
『語りえぬものを語る』でも、科学的な決定論は「探究の指針」だ、というようなことは書きましたけど、宿題としてずっと残っていたんです。
──その難しさの根っこは、どこにあったのでしょう。
野矢 なんで難しかったんでしょうね。それがはっきりしていれば突破しやすいのでしょうけれども。私は、すべてが物質と同じように決定されているなら自由は侵される、と考える立場なんです。「なんで?」と聞かれても、「だって全部決定されてたらやじゃん」という、子供みたいな言い方しかできない。

でも、決定論と自由は両立すると考える人はこう言うわけです。「コーヒーを飲みたいと思って飲んでいるんだから、それが決定されていても、それ以上何がほしいの?」と。
「でも紅茶を選べないじゃないか」と言えば、「食堂に定食が5種類あって、あなたはA定食を食べたいと思って選んだんだから、選択可能性はあるでしょう。全部決まってるんだけどさ」と。「A定食を選ぶことに決まっていたなら、選択可能性はないじゃないか」「でも5種類から選べたじゃない。何がほしいの?」
この「それ以上何がほしいの?」に対して、自分が自由ということでそれ以上何を求めているのかが見えてこなかった。そこが、一番先に進めなかったポイントかもしれません。
──それが、時間の問題と絡めることで見えてきた。
野矢 そうですね。あの本で「やったな」と思っているところの1つは、世界を「無時制的」にとらえると論理的に決定論になってしまう、ということを論証してみたところです。
物理学には、過去・現在・未来はないですよね。古生物学や歴史学は過去のことを扱っていると言えそうですが、実はそうした学問も無時制なんです。「ジュラ紀にはこういう生き物がいました」「江戸時代にはこういう制度がありました」と言えばよくて、それが現在から見て過去かどうかはどうでもいい。
では、世界が無時制的に記述できると仮定してしまうと、どうなるか。たとえば「3000年に富士山が噴火する」という命題があったとき、それがもし真であるならば、過去・現在・未来にかかわらず無時制的に「真」だということになります。これがこの決定論―論理的決定論―の強力な罠なんです。

──客観的に世界を記述しようとして時制を排した途端に、未来の出来事が現在すでに決定されていることになってしまうということですね。
野矢 そうなんです。だから、論理的決定論から逃れるためには、世界を語る言葉に「時制」を取り戻さなければいけない。
つまり私たちは、現在と過去に取り囲まれた世界の中で、この先変わっていく予感として未来を想定しながら生きている。「未来は存在しない」という言い方になるんですけどね。世界は時制的に現れているんだ、と。
これ、まさに眺望論なんですよ。『心という難問』はこの世界を「どこから」見るかという眺望論でしたが、今回は「いつから」見るかという時間的眺望論なんです。そして行為をどのようにとらえるかという行為論のほうには相貌論が引っかかっている。
『自由への哲学的探究』はこれまでの延長線上に作ろうとしたわけではないけれど、一人の人間が自分の中で辻褄を合わせながらやっていくから、やはり『心という難問』の先にあるんだなと、改めて見えてきました。
そうなると次は、時間と空間を合わせた眺望論・相貌論をもう少し統一させて、本の最後にわざと開いておいた「自己」とは何かという問題に向かっていくのかな、と予感しています。
自分を騙さない言葉で考える
──先生の本は、初学者にもわかりやすく書かれています。平明な言葉づかいは読者を意識してのことなんでしょうか。
野矢 それは単純な質問じゃないので、いくつか答え方があります。
まず一方の極端として、『心という難問』や『自由への哲学的探究』のように、本当にその問題に向き合っている本は、読者がわかってくれなくても構わない。自分が納得できればいいんです。
とはいえ、実際は決してそうなっていなくて、担当の編集者が「ここがわからない」とか「ここはどうなっているのか」と、読者を代表して聞いてくる。私の担当の方はものすごくこと細かに聞いてくるんです。それによってより読者に届くものになっているとは思います。
でも、それがなくても私の書くものはたいがいの哲学書よりわかりやすいと思うんですよ。なぜかと言えば、身の丈に合った言葉でやらないと、私自身が騙されてしまうからです。

哲学用語は、日常にない新しいものの見方を出すために本当は必要なものなんですが、自分を騙さないためには、可能な限り普段づかいの言葉で考えなくてはいけない。
哲学の楽しさは、自分の頭と自分の足で先に進めたときにあるのであって、「俺深いこと言ってるな」というナルシシズムじゃないんです。
──最後に哲学という学問は、根源的に何を問う営みなんでしょうか。
野矢 哲学にも流行があります。その時代の最先端を走ろうとする哲学者もいます。だけど、私はそういう流行り廃りとは無関係に自分の気になる問題を考えてきたということです。
そもそも哲学は「学問」と呼ぶべきものではないようにも思っているのですが、それは措いとくとしても、少なくとも私自身は自分が「学者」だという気はしていないんです。
私のやっていることは「中二病」がそのまんま歳をとったみたいで、いろいろ考えてはきたけれど広くて深い学識があるわけでもありません。
ただ私の場合は、自分の身に降りかかってくる哲学的難問をなんとかしたいだけで。それは裏返して言えば、どんな人にも発生しうる問題と向き合っている普遍性をもっているということでしょうね。
連載『問いの道』は、学問を究めようとする一人の学者が、どのようなまなざしで問いを眺めながら歩んできたのか。そして、根源的な問いが、どのように学問として立ち上がり、道となり、ときに道が分かれ、また新たな道につながっていったのか、その変遷を尋ねていきます。
- 取材・執筆斎藤哲也
- 撮影西田香織
- デザインjaco
- 編集中島洋一
- 企画柳原暁