考古学とは、頭ではなく、体で覚える学問━━そう語るのは、考古学者の笹生衛(國學院大學神道文化学部教授)だ。
「景色を見ると、昔の人はこれをどう思ったのかな、と想像するんです。それが問いの根っこにあります」

高校時代に遺跡の発掘調査に参加しておもしろさを知って以来、笹生は泥にまみれながら土と向き合い続けてきた。転機は大学院時代、一片の土器との出会い。1200年も前に名もなき村人が墨で書いた文字が、そこには生々しく残っていた。
以来、人間の信仰と心のあり方を「物」から追いかけることが、笹生の研究の軸になっていく。泥だらけの現場で、一人の考古学者が出会ってきたものを、前編でたどる。
なぜ何百年も続いた村落が、あるとき一斉に消えたのか、知りたかった──笹生衛・後編
問いが常に先にあり、専門はあとからついてくる
━━笹生先生は、考古学者として神祭り(祭祀)や死者の弔いについて研究されています。令和5(2023)年に刊行された『まつりと神々の古代』では、「考古学」や「文献史学」だけでなく、「古気候学」や「宗教認知科学」の知見も貪欲に取り込んでいます。
乱暴で恐縮なのですが、先生の携わる領域を勝手に一覧にしてみたのですが、あってますでしょうか。

笹生 学域にはあまりこだわっていませんが、おおむね合っていると思います。
特に古代の人々が神や祖先をどう祀ったかを研究する「祭祀考古学」と、集落や墓の配置と景観、それを変えた地形や自然環境の変化から人々の営みを研究する「景観考古学」が私のアプローチと言えるかもしれません。
━━かなり大胆に学問の領域をまたいでおられますが、抵抗はないのでしょうか。
笹生 ありません(笑)。というより、順序が逆なのだと思います。

私は「学際研究をやろう」と思ってやったことは一度もないんです。学問のための学問ではなくて、知りたいことが先にある。「1500年前の村人たちは、どのような信仰を持って生きていたのか」「なぜここに村を築いたのか」「なぜ人間は集団をつくるのか」といった問いが目の前にあって、それを解くのに考古学のアプローチだけでは足りない。
だったら気候学の先生に教えを乞うし、宗教認知科学の本も読む。それだけのことです。
━━問いに導かれて、分野を越境していくのですね。
笹生 そうです。人によっては「そんな気候学だ、宗教認知科学だといった他分野の新しい理論に、安易に飛びついていいのか」と冷ややかに見るかもしれません。でも、やってみることによって、これまで見えなかったものがクリアに見えてくるのであれば、私は分野の境界線には、こだわらずに使えばいいと思っています。
たとえば古気候学の中塚武先生を代表とした地球研のプロジェクトでは、「なぜ10世紀に、それまで何百年も続いていた伝統的な集落が全国的に一斉に消え去るのか」という謎について、「裏」が取れる可能性が出てきた。
あるいは宗教認知科学の知見によって、私が現場から手探りで積み上げてきた「坐(ま)す神」※の話に、理論的な裏づけが与えられる。
※坐す神:笹生が提唱した、神霊は遠くから招かれて依り代に降りてくるのではなく、その場の環境の働きに神の存在を直観し、神霊はその場に坐す(=居る)という神のとらえ方。
どういうことかというと、人間には、何かの働きを目の当たりにしたときに、「行為者」を直観する脳の認知の傾向があるんですね。木が揺れれば、その背後に何かがいるのではないかと直観してしまう。これは人類に共通する、生命を守るのに有利に働く脳の働きと考えられます。
そう考えると、水を絶やさず湧き出させる山、船の行方を導いてくれる島、そのように生活や生産、交通などで重要な働きが現れる場所に、そこに「坐す」誰かを感じ取るというのは、ごく自然な認知の筋道です。だから、神は招くと遠くからお出でになるのではなく、現象が現れる場所に「居られる」と直観するのです。
これは、私が遺跡研究の立地から言ってきたことと、きれいに噛み合ってきます。
それから、作法と手順を守って儀礼を行うことが、人間の不安感の低下につながる、という研究もあります。古代の祭りが、素朴な思いつきではなく、場所も手順も細かく定められた厳格なシステムだったのはなぜか。これも、そういう視点から説明ができるわけです。
最近はなかなか現場に出られなくなって「デスク・アーキオロジー(机上の考古学)」になっている部分があって、自分でも忸怩たる思いがありますけど(笑)。でも、もう60歳を過ぎたからこそ、現場での大量の経験値をベースにしながら、理論的な本を読み進めていく楽しみもあります。
考古学は体が半分
━━そもそもどういうきっかけで考古学の道に進まれたのでしょうか。
笹生 子どものときから古いものは好きでした。家の近くには古墳や横穴墓と呼ばれる古代の墓が多くあり、そのような古い遺跡に対する興味は昔からありました。
また、子どものころは親に連れられて地元の祭りにはよく行っていました。お祭りといっても大きなものではなく、地域の春の農事始めと、秋の収穫感謝の神事です。祭りの雰囲気が良かったのか、その情景は今でもよく覚えています。「神社っておもしろいな」と、幼心に関心を持っていたんですね。
考古学と出会ったのは高校時代です。郷土研究部に入り、野中徹先生と出会ったことが研究の端緒を開いてくれました。地元の研究者だった野中先生は、高校生の私たちを実際の発掘現場に連れて行ってくれたんです。
夏休みなどになると、部活動として2週間から3週間程度、発掘調査の現場に通い、発掘調査の作業に参加しました。それがもう本当におもしろくて、楽しくて。
ただ掘るだけではなく、掘り上げた土器をみんなで洗って接合(せつごう)したり、古い資料を見たり、あの現場での「土を掘る楽しさ」が、私の研究の原体験ですね。

國學院大學に入学したのも、神社での祭りへの興味とともに考古学にひかれたところが大きかったと思います。
━━学部、大学院でも精力的に発掘されていたのですか。
笹生 はい、もうそれこそずっと発掘調査の現場に出て掘っていましたね(笑)。
特に大学院の時代は、実家から通えるところに地元の「君津郡市文化財センター」という市町村がつくった財団法人組織があって、そこで臨時の調査員として雇用してもらっていました。
そのため、生活の半分が発掘調査の現場でした。当時は、週に3日はその現場に行って調査を行い、雨が降れば事務所で土器の実測をする。そして残りの週3日は大学院に行くという、現場と大学を往復する二足のわらじのような生活を送っていました。この修士の2年間は、体は忙しかったですが本当に楽しくて仕方がありませんでした。
もちろん大学の授業も大切ですが、今の学生を見ていると「ちょっと大学に来すぎじゃない?」と思ってしまうくらい、私はとにかく現場に出ていました。
考古学というのは、やはり体で覚えるものです。やっていることは、ある意味で職人です。土がどういう色をしているか、この位置でどう土層を確認するか、こうなってきたら次は何が出てくるのか。これは実験と同じで、仮説を立てながら、現場で確認し検証しながら調査を進め、適切にデータをとる。その方法と感覚は体で覚えるものですね。
だからこそ、机の上で考えるよりも、現場に身を置いてひたすら体を動かす。予想外の遺構や遺物が現れたときの感動は、他では体験できないものです。その経験のなかで調査の方法と感覚は身につくのだと思います。
1200年前の村人の文字が、人生を決めた
━━祭りや信仰をテーマにされたのは、何がきっかけだったのですか。
笹生 直接のきっかけは、大学院のときに調査した永吉台遺跡群です。千葉県袖ケ浦市の、いま東京ドイツ村になっているあたりで、そこから平安時代の小さな寺院の跡が発見されました。
古代のお寺というと、誰もが奈良の東大寺や薬師寺のような、国が建てた立派で大きな寺院をイメージしますよね。でも、実は古代の村(集落)のなかにも、小さな寺院があった。
この現場では目が釘付けになるような遺物が大量に出てきました。特に衝撃を受けたのが、墨で文字を書いた土器、「墨書土器(ぼくしょどき)」と呼ばれるものです。
土器の表面に、墨で「佛」や「寺」「西寺」「山寺」などの文字が書かれていました。
今から1100年も1200年も前の、東国の村人たちが土器に書いた生々しい文字が、現代の私たちにもはっきりと読める。これを見た瞬間、「こんなおもしろいものがあるんだ!」と、強烈に引き込まれました。
その後、他の集落遺跡からは、「国玉神」「大神」「神」や「罪」といった文字が残っている例も多く発見されました。
今でこそ神祭りを専門にしているように見えますが、古代の仏教信仰も意識しているのは、このときの調査の経験が大きく影響しているからだと思います。この寺院の遺跡で墨書土器に出会ったことで、「古代の村の中で、文字や物を通して、当時の人々がどういう信仰を持って生きていたのかを復元したい」と強く考えるようになりました。
人間の「信仰」や「精神世界」という目に見えないものを、考古学の現場の「物」から追究していく私のスタイルは、まさにこの大学院時代の、小さな寺院の遺跡との出会いから始まりました。
この発掘調査がきっかけとなって、25歳のときに墨書土器に関する論文をまとめたんです。大学の恩師である岡田莊司先生を中心に論集をつくることになって執筆したものですが、それをのちに、古代文字研究の第一人者である平川南(ひらかわみなみ)先生(元・国立歴史民俗博物館館長)が、報告書の考察やご自身の論文で引用してくださいました。
墨書土器の読めない文字を平川先生に解読していただいていたというご縁はあったのですが、まだ25歳という若輩の私の論文を、学界の大家がきちんと目を通して評価し、引用してくれた。
自分の頭で考えて導き出した意見が他の先生に届いたのだという経験は、本当にうれしかったですし、大きな自信になりました。

40メートルの前方後円墳の発掘調査を任された
━━修士課程修了後は博士課程には進まずに、千葉県に就職されています。
笹生 そうですね、昭和60(1985)年にストレートに就職しました。やはり「現場に出て土を掘るのが楽しくて仕方がない」という気持ちが、何よりも勝っていたんです。
こういう言い方をすると、怒られるかもしれないですけれど、私は博士課程に進まずに就職して、逆に本当に良かったなと思っています。考古学のような学問をするうえで、フィールドワークをどれだけ経験しているかということは、ものすごく重要です。
現場を知らずに頭を悩ませて論文を書くよりも、若いうちに「楽しい、楽しい」と言いながら現場で汗を流して調査をしたほうが、はるかにたくさんのことを発想できるようになる。それがとにかくおもしろかったのです。
━━就職されてからも、実際に発掘調査をしていたのですか。
笹生 24年間、千葉県の教育庁(教育委員会事務局)に勤めましたが、最初の10年間はもう毎日泥だらけになって現場で発掘調査をする生活でした。当時の千葉県内では、大規模なニュータウン建設が計画されており、それに先立って、計画用地内にある遺跡の発掘調査が進められていました。1年で、10000〜20000㎡を発掘調査するという世界です。
私が、最初に赴任したのが、現在の千葉市の「おゆみ野ニュータウン」となっている場所です。ニュータウン建設の対象面積は約600ヘクタール※という広大なもので、そこに所在する集落や貝塚、古墳群などを調査するのです。
※600ヘクタール:1ヘクタールは10000㎡なので、実に東京ドーム128個分にあたる広大な計画用地となる。
旧石器・縄文時代から平安時代、さらに鎌倉・室町時代までの遺跡を次々に調査したのですが、就職して2年目に、前方後円墳一基を丸ごと発掘調査する担当者となりました。
━━そんな巨大な古墳を一人で掘ったのですか?
笹生 いやいや、もちろん私一人がスコップを持って発掘調査をするわけではありませんし、墳丘の全長が40メートル級の前方後円墳は、小型のタイプといってよいでしょう。
現場の調査担当者(責任者)が、私だったという意味です。実際の作業には、地元の主婦を中心とした多くの方々を作業員として雇っていました。毎日マイクロバスで現場に来る、大部隊でした。
━━それだけ多くの作業員の方たちに指示を出したり、遺物が出たときにどうするかを判断したりしていくのですね。それは大変そうです。
笹生 そう、重要な古墳の調査を任されたという緊張感もあり、しんどかったというのは正直なところです。ただ、それがまた本当におもしろかったのです。
古墳の横穴式石室の中では大刀が10本以上も束になって出土したり、墳丘(ふんきゅう:古墳で土を盛って高くなった部分)には馬の埴輪や、まるでシルクハットのような立派な帽子をかぶった人物埴輪が並んでいたり、若い私は「すげえ!」と大興奮していました。
また、若いからということでいろいろな新しい調査方法も現場で試させられました。当時は遺物が出土すれば、1点ずつ座標と標高を測り図面を作成し、写真で記録して取り上げる手順でした。
しかし、ここでは墳丘から多量の埴輪が出土したこともあり、遺物が出土した状況の垂直写真を、気球に吊り下げたカメラで撮影し、その写真を隣の写真と重ね合わせて、埴輪片の出土状況の図面を作成するという、今の写真実測の走りのような技法を試行錯誤しながら行っていましたね。
この古墳は、最終的に前方後円墳を丸ごとすべて掘り下げる計画でした。墳丘を上から、地層の堆積状況を確認しながら慎重に掘り下げます。そうして古墳をつくる直前の「旧地表面」を検出します。これを細かく観察すれば、古墳を築く直前に何をしていたのか確認できるからです。
そうして旧地表面を全面で出したところ、その黒い地面に、うっすらと直線や丸い線が見えるのですよ。「え、これ何?」と思って。どうも前方後円墳をつくる直前に、当時の人々が地面に細い溝状の線を引いて「地割線」として、土を掘る範囲と土を盛る範囲を示していたらしいということがわかってきました。

━━それってひょっとして大発見ではないですか。
笹生 それがね、驚いて上司に「設計線(地割線)らしきものが見えます」と興奮気味に伝えたのですが、これまでにこのような例は発見されていませんでしたので、「そんなのって、本当にあるのか」と検討していたところ、思わぬ方向に展開することとなりました。
大学時代の考古学の恩師である杉山林継先生が「笹生君、なんか出てるか〜?」と陣中見舞いに現場へと来たのです。当日は、新聞記者さんも同行されていたんですが、「実は先生、こんなのが出ているんです」とついしゃべっちゃった。
そうしたら程なくして新聞に「日本初の古墳の設計線発見!」と大々的にスクープ記事が出てしまって(笑)。
もう大目玉ですよ。本来、文化財関係の正式な報道発表※は、事前に教育委員会の事務局で原稿をつくって、記者クラブに投げ込みを行って、それから発表というのが通常の手順なのですが、それらを全部飛ばして出てしまったわけですから。
翌日、出勤すると、事務所の前に黒塗りのハイヤーがずらっと停まっていて。「明治大学の大塚初重先生が来ておられるから、笹生君すぐに現場へ行け」と。現場ではNHKの記者の方も入ってインタビューを受ける。展開が早すぎてついていけませんでした。
※笹生先生注:この調査の概要は、「椎名崎古墳群・人形塚古墳発掘調査概要-人形塚古墳の旧地表面上の地割線について-」『研究連絡誌』19号〈(財)千葉県文化財センター、1987〉として私が簡単な報告を行っています。現在でもリポジトリで閲覧できます(26歳の文章はまだ整っていなくて恥ずかしいのですが)。
「点」ではなく「面」で掘る
━━千葉県での発掘経験は、どういう研究に結びついていったのでしょうか。
笹生 千葉県では、何千・何万件という圧倒的な広さの「面」で発掘調査を行ってきた。その一端を担うという貴重な経験をすることができました。
そこから当時の生活や生産、社会の実態を解明したらおもしろいのではないか、と意識するようになりました。
奈良県などでの発掘調査は貴重な遺跡を残すためにピンポイントの狭い範囲での調査となることが多いと思います。しかし、千葉県のニュータウン開発に伴う発掘調査は台地全体を丸ごと調査対象とします。何百ヘクタールもの広大な規模で発掘調査を行い、「集落同士の位置関係、その間に古墳や墓はどう配置されているか」という空間的なレイアウトを復元する視点が自然と養われました。
また、低湿地での水田跡の発掘調査を通じて、水田などの耕地の様子もわかってきた。このような環境で日々、調査をするなかで「当時の人々が見ていた地形や景色そのものを復元する」というアプローチを現場で着想するようになったのです。
こうした千葉県での泥臭い「面の経験」が、大学で専攻していた宗教学とカチッとドッキングしたのですね。「人間はなぜこの場所に集落をつくり、なぜここに死者を葬り、なぜそこを聖域(神祭りの場や寺院)としたのか」。彼らがその空間をどうとらえていたのかという「環境認知」のパターンを、物の配置から解き明かしていく。
文献の文字を追うだけではない、実感を伴う「景観の考古学」という考え方は、千葉県の広大な発掘調査現場での経験があったからこそ確立できたのだと思います。

もう一つ重要な経験は平成14(2002)年から3年間、千葉県立安房博物館で学芸員(学芸課研究員)を務めたことです。これもターニングポイントだったと思います。館山市にあった、南房総の漁労をテーマとした博物館で、江戸時代の文献も含めて、房州(千葉県南部)という地域の歴史全体を見ることになった。
ちょうど平成15(2003)年が、元禄地震(1703年)から300年にあたる節目で、巨大地震をテーマにした企画展を行うことになったのです。
元禄地震のとき、房総半島の先端は一晩で5〜6メートルも隆起したと言われています。南房総市の地元には、地震以前につくられた「漁場争論絵図」という、隣り合う村同士が漁場(磯)の境界線をめぐって幕府の裁定を仰いだ非常に正確な地図が残っていました。この絵図に描かれた実際の現場に行ってみると、当時の海岸線が今よりもはるかに高い場所にあり、地震による劇的な地形変化を明確に体感できたのです。
そのときの記録もたくさん残っていて、この村では津波で何人が亡くなったという情報や、地震当日の命日を刻んだ墓碑も多く残されている。それで気づいたのが、供養の問題です。
三十三年忌や五十年忌、あるいは百年忌といった法要を執り行いますよね。津波などの災害で亡くなった方々の供養を続けることは、単なる宗教行事にとどまらず、災害の生々しい記録であり、その記憶を地域で語り継ぐシステムとして機能していきます。そういった営みを通じて、「当時の人々が過酷な自然環境をどのように認識していたのか」「それに対してどう振る舞うことが、最終的にコミュニティの持続や住人の幸福につながるのか」という議論ができるだろう、と考え始めたのです。
そのときにやはり、避けて通れないのが「信仰」という問題でした。実は、こうした切り口での研究は、それまで意外なほど行われていなかったのです。「信仰と考古学」というテーマ自体はありましたが、広い地域景観や、人間が利用する土地の全体的なレイアウト(配置)という次元まで踏み込んで議論されることはほとんどありませんでした。
私の場合、千葉県での広大な「面」の発掘調査を通じて、そうした村(集落)の空間レイアウトのイメージが常に頭の中にありました。だからこそ、「死者はどこに葬られるべきなのか」「どこが世代を超えてずっと聖域として守り継がれていくのか」といった問いに対して、地形や土地利用の実態からクリアな見通しを立てることができたのだと思います。
40代で博士号、そして大学へ
━━博士の学位を取られたのが40代半ばです。お勤めしながら博士論文を書こうと思ったきっかけは何だったのですか。
笹生 恩師の岡田莊司先生から「笹生さん、そろそろ博士論文をまとめてみない?」とお声がけいただきまして。そのときは博物館に勤務していたのですが、私は博士後期課程には在籍していないので論文博士※しかない。
※論文博士:博士論文の審査を申請してその審査に合格した者に対し、博士の学位を授与するもの。
それまでに論文は、ある程度の数があったので、1冊にまとめて少し書き加えて、平成17(2005)年に『神仏と村景観の考古学』として出版させていただきました。この単著を博士論文として提出し、先生の指導を受けて学位を取得することができました。
内容は、大学院以来つづけてきた、古代集落内の信仰の研究がベースとなっています。仏教関係の遺物が出てくる集落の中から、「神」とか「罪」とか書いた墨書土器も出てくる。伝統的な信仰と新しい信仰が、東国の村の中でせめぎ合っているのか、共存しているのか。古代・中世の東国での信仰を景観という切り口で追いかけたのが博士論文です。
━━その後、平成21(2009)年に國學院大學へ移られます。40代の終わりでのご決断でした。
笹生 その直前まで、大学の教員になるなんてまったく考えていませんでした。このまま文化財担当者として勤め上げる、くらいにしか思っていなくて。できれば博物館で研究と展示を行って終わるのが幸せかなと(笑)。
ところが岡田先生から、大学の方も考えてみたらと言われたんです。ちょうど『日本神道史』という本を一緒に書かせていただいて、「一番古いところは笹生さんが書いて」と依頼されました。それを執筆しながら、「祭りというのはまだ分からないことがいっぱいあるな」と思いました。この分野はまだ伸び代があるぞ、と。
━━そこから長年、信じられてきたザ・定説といえる日本の古代の祭祀のあり方をくつがえすような発見をされていくんですね。
連載『問いの道』は、学問を究めようとする一人の学者が、どのようなまなざしで問いを眺めながら歩んできたのか。そして、根源的な問いが、どのように学問として立ち上がり、道となり、ときに道が分かれ、また新たな道につながっていったのか、その変遷を尋ねていきます。
- 取材・執筆斎藤哲也
- 撮影西田香織
- デザインjaco
- 編集中島洋一
- 企画柳原暁