なぜ何百年も続いた村落が、あるとき一斉に消えたのか、知りたかった──笹生衛・後編

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神は、祭りのたびに、榊(さかき)の枝に降りてくる━━

民俗学者の折口信夫以来、古代の神祭りはそう考えられてきた。今も教科書にはそう書かれている。

だが、土の中から出てきたものは違った。

「遺跡研究の現場に行くと、定説と言われているものが本当なのかな、ということが次々と出てくるんです」

笹生衛が遺跡から導いたのが、「坐(ま)す神」という見方だ。神は招かれて来るのではない。その土地の自然の働きそのものに、人々は神を直観し、そこに「坐す=居る」と認識する。

現場で立った問いは、やがて笹生を考古学の外へ連れ出していく。一人の考古学者が問いに導かれて歩いた道を、後編でたどる。

なぜ「ここに」村をつくり、なぜ「ここに」死者を埋葬し、なぜ「ここに」神を祀るのか──笹生衛・前編

ザ・定説を遺跡の「物」が覆した

━━大学に移られてから、とりわけ目を引くのは、古代日本の神や祭祀について、考古学的な実証にもとづいて通説をひっくり返す研究です。

笹生 大学に来てからは、すぐに「宗像(むなかた)・沖ノ島(おきのしま)」の世界遺産登録に向けた共同研究に関わることになりました。

 沖ノ島は「古代祭祀の頂点」のような遺跡です。島全体が現在でも篤い信仰の対象であり、聖域として守られてきたため、古代のお祭りの跡がそのままの状態で残っています。ここの調査研究を10年以上にわたり続けてきたなかで、いまご指摘いただいた研究も実を結んでいきました。

 身も蓋もない言い方かもしれませんが、遺跡の現場に行くと、それまで定説と言われていたものが本当なのかな、ということが次々と出てくるんです。

 なかでもザ・定説とされてきたのが、古代の祭祀です。私が学生の頃、古代の神祭りの形については、國學院大學教授であった大場磐雄先生※の説がほぼ定説化していました。

※大場磐雄(1899〜1975):國學院大學で学んだのち折口信夫に師事し、昭和10(1935)年に神道考古学を確立して同大学教授となった考古学者。師・折口の依り代説を祭祀遺跡の解釈に応用し、古代の祭祀を素朴な依り代信仰の形として定説化した。

 大場先生は、昭和10(1935)年に神道考古学を提唱して確立した方です。そして現在、神祭りや神社の原形とされるイメージは、その研究成果によるところが大きいですね。

笹生にとって学問の礎となった一冊『まつり:考古学から探る日本古代の祭』(学生社 1996年 新装版)

大場先生の論による当時の祭りはこんなイメージです。

一定の場所を祭場である斎庭(ゆにわ)とし、榊※の枝に石や土でつくられた小さな鏡や剣の模造品を吊るして、それを「神籬(ひもろぎ)」として神様を一時的にお招きする。そして前に土器を並べてお酒や食べ物を供えるという、極めて簡素で素朴なお祭り。

※榊(さかき):サカキ科サカキ属の常緑小高木。神道においては、神棚や祭壇に供えるなど神事に用いられる。

━━「お祭りやお盆や正月など、特別なときに神が降りてくる」。なんとなくそんなイメージがあります。

笹生 その背景にあるのが、折口信夫先生※の「神様は海の向こうからやってきたり、一時的に依り代に降りてきたりする」という神のとらえ方、つまり「神観」です。私も学生時代に、大場先生の『まつり』(学生社)という本や折口先生の『古代研究』を熱心に読んでいましたから、ものすごく意識しました。

※折口信夫(1887〜1953):國學院大學に学び、のちに同大学教授として民俗学講座を開いた民俗学・国文学の泰斗。神は、祭りにあたり天から高い樹木などに依(よ)りつくとの「依り代」論を提唱したり、常世(とこよ)からときを定めて訪れるとの「まれびと」論を提唱したりした。その神観が長く古代の神祭りの通説を支えてきた。

 でも「依り代」※というのは、あくまで折口先生が民俗学的な観察から着想を得てつくられた学術用語なのです。歴史学や考古学の検証を経ているわけではない。

※依り代:折口信夫が説いた、祭りにあたり神が天降る、高い目標となる樹木など。

 そして実際の「現場の物」と向き合ってみると、実態はまったく違うんですよ。

 まず一つは、祭りでの捧げ物や使う道具の実態です。通説では石や粘土でつくった鏡や玉などの模造品ばかりが注目されますが、5世紀中頃の保存状態のよい祭祀遺跡を丁寧に調査すると、実は多くの「鉄製品」が出てくるんです。本物の刀や鏃(やじり)といった武器・武具、鎌や鋤先(すきさき)、斧などの農工具、さらにその素材の「鉄鋌(てつてい:鉄の延べ板)」がセットで出土する例が報告されるようになってきたのです。

 これらは当時、ヤマト王権が朝鮮半島から導入した最新の技術でつくられた、最先端の貴重な実用品でした。古代の神祭りというのは、こうした最高の道具や素材、さらに新しい紡織技術で織り上げた美しい布を神々に捧げる、極めて組織的でダイナミックな営みだった。この5世紀の捧げ物の組み合わせこそが、のちに国家が定める神事の捧げ物「幣帛(へいはく)」の原形そのものだったわけです。

 そしてもう一つ、決定的に異なっていたのが「神籬(ひもろぎ)」の実態です。

 一般的には「榊」の枝を立てて、神を迎える依り代であったと考えられてきた。今も教科書にはそう書いてありますよね。

 しかし、奈良県などの遺跡の発掘調査の成果からわかってきた実態は、お祭りの空間を外界から区画し、周囲から遮る(結界する)ための「塀(囲い)、垣」だったと推測できるのです。

 なぜそのような区画の塀(垣)が必要だったかといえば、神聖な空間を結界して、神の祟りにつながる祭祀への穢れを防ぐためです。そして、神様を象徴する鏡や刀剣などが安置されていれば、それに外から悪い影響が及ばないよう、また、その霊威(神の強い働き)が周囲に悪影響を与えないようガードするためです。

 そうやって新しい発見を積み重ねていくごとに、古墳時代の神祭りは、決してこれまでイメージされていたような素朴なものではなく、きっちり儀礼化された厳格なシステムであることがわかってきました。そうしないと神は怒り、祟りとして災害が発生するからです(笑)。

 そうなると、神様のとらえ方自体も変わらざるを得ません。一時的に遠くからやってくる来訪神ではなく、神は、その土地の恵みや災害という自然環境の働きと直結して考えなければならない。人々は、自然環境の特別な働き(現象)を起こし司る超自然的な存在を直観し神とした。

 だから、特別な現象が現れる場所には神が「坐す=居る」と直観する。これが、私が考える「坐す神(ますかみ)」という概念です。神は最初からそこに居られる。

 発掘調査で泥だらけになって「物」を掘り出し、地形や空間のレイアウトと向き合ってきたからこそ、この古代のお祭りのリアルな姿が見えてきたのだと思います。

━━具体的にはどういう場所なのですか。

笹生 一言で言えば、その土地の「自然環境の働き」が、人間の生活や生産、交通と関わって顕著に現れる場所です。

 宗像大社(福岡県)でいえば、玄界灘の荒波のただ中に浮かぶ沖ノ島には、沖津宮が鎮座します。この島は古代の航海者たちにとって命綱となる「海上目標としての働き」を持っていますし、飲料水となる真水が湧くという重要な働きを示します。

 また、九州本土の辺津宮は、古代には「港湾に適した働き」を持つ潟湖(せきこ)※に面していました。この2か所の間、宗像の大島に中津宮が鎮座します。

※潟湖:砂州などによって外海と隔てられてできた、波の穏やかな入り江状の水域(ラグーン)のこと。

 宗像三女神は、日本列島と朝鮮半島を結ぶ、古代のヤマト王権にとって重要な航路を導き、行き来する船を守る働きを示した。だから、その一帯は聖域となり、古代の国家的な祭祀の遺跡が営まれたのです。

神と祖(おや)は、同じように祀られていた

━━笹生先生は神祭りの問題と同時に、古墳研究から死者の問題についても研究されていますね。

笹生 私の中では、この二つは別のテーマではないんですよ。むしろ同じ一つの問題の裏表だと考えています。

 というのも、神祭り「祭祀」の形が整うのが5世紀の前半から中頃です。実はまったく同じ時期に、古墳の副葬品や埴輪の並べ方も大きく変わるんです。副葬品は銅鏡に替わり鉄製の武器・武具や農工具が一気に増え、人物や動物の埴輪を並べて「食べ物とお酒を捧げている場面」を古墳で固定的、立体的に表現するようになる。

 これは、さっきお話しした神への捧げ物の組成と、ほとんどが重なります。つまり5世紀の日本列島では、自然の働きから直観した「神」と、古墳に納めた特別な死者、祖先を、神と同じ方法で祀っていた。最高の品々を捧げ、お酒とごちそうで「饗応」(おもてなし)をしたのです。

特別な死者とは、生前は王や首長として重要な役割を果たし、死後は自らの役割を子孫に伝え、子孫を加護する代々の祖先ということになります。祖先は、『古事記』では「祖(おや)」と呼び、『日本書紀』では一族の起源となる祖先を「遠祖・上祖」などと書き「とおつおや」と読ませています。

そして、「上祖」の文字は、埼玉県の稲荷山古墳から出土した金象嵌銘鉄剣の銘文に刻まれ、代々の子孫を「児(こ)」と表現しています。その年代は、銘文冒頭の「辛亥年七月中に記す」という文字から、辛亥年=西暦471年と考えられます。

 つまり、祭祀遺跡が列島内の各地に残された5世紀代には、重要な祖先を「上祖」とし、その子孫が「児」としてつながるという系譜の意識が、すでにあったことになります。

 古墳は遺体となった「上祖」や「祖」を納めた場所です。当時の人たちにとって上祖や祖は、自分たちのアイデンティティーを象徴し、子孫を加護する重要な存在として、神と同じく祭祀(おもてなし)の対象であったと考えています。この様子を具体的に表したのが形象埴輪(はにわ)群だった。

 だから私は、神祭りを追いかけていくと必ず古墳に行き当たるし、古墳を研究していると必ず神祭りの話になる。そう考えて研究を続けています。

 そして、これもまた空間のレイアウトと人間の認知に深く関わっています。

 私は、おゆみ野ニュータウンをはじめとする千葉県の広大な遺跡群で、集落とお墓(古墳群)がどのような位置関係にあったのかを調査してきました。そこで見えてきたのが、古墳時代中期の5世紀後半に成立する特徴的な集落と墓域(古墳群)の景観です。

━━ここでも千葉県での「面」の発掘が効いてくるわけですね。

笹生 そうなんです。ここは本当に、千葉県内の発掘調査で竪穴住居を何万軒と掘ってきた蓄積がなければ言えないところだと思います。

 おゆみ野ニュータウン内の高沢遺跡では台地の上に集落があって、小さな谷を隔てた北と東に古墳群がある。高沢遺跡の調査の結果、5世紀後半に竪穴住居群ができて集落は成立していました。それを追いかけるように、5世紀末か6世紀初頭に集落の北側に古墳が3基つくられる。6世紀の中頃から後半になると、古墳は東側の台地上まで広がっていく。

 つまり、「生きている人が暮らす集落」と「死者がいる墓域(古墳群)」がセットになった景観が、5世紀の末期頃(古墳時代後期の初頭)にはできあがった。

 生きている人々が暮らす谷(谷津)に面した台地上の集落から、谷を一つ隔てた向こう側の台地を見ると、そこには先祖の墓である古墳群が並んでいる。つまり、人々が毎朝起きて田畑仕事に出かけるとき、ふと顔を上げたその視線の先に、いつでもご先祖様のお墓(古墳)がビジュアルとして見えている。日々の生活空間のレイアウトの中に、死者となった祖先「祖(おや)」たちが、常にいるわけですね。

━━その景観が、どのくらい続くのですか。

笹生 これがおもしろいところで、9世紀(平安時代前期)まで、400年以上続きました。

 根拠は出土する土器や陶器の型式です。古墳の周溝(墳丘の周囲にめぐる溝)の中や、横穴式石室※の入口付近から、土師器(はじき)や須恵器(すえき)の杯(つき)や壺が出てくる。ところがそれが、古墳をつくった6、7世紀のものだけではない。8世紀(奈良時代)、9世紀の土器や灰釉陶器(かいゆうとうき:木の灰を釉とした陶器)の碗が出土します。

※横穴式石室:古墳の墳丘内に石を積んで遺体を安置する部屋(玄室)を設け、側面に出入り口(羨道)を設け、複数回の埋葬(追葬)を可能にした埋葬施設。

 ということは、古墳をつくらなくなってからも、約200年にわたって、集落の人たちはその古墳群を意識して、土器・陶器で飲食を供え続けていたと考えられます。自分たちの「祖」がいる場所として、ずっと認識し続けていた。

 『続日本紀』※慶雲3(706)年3月14日の記事には、有力者の土地占有を禁じる詔(みことのり)が書かれています。ただし、その例外として「氏々祖墓」(各氏族の先祖の墓地)を挙げています。この先祖の墓地には、このような地方の伝統的な古墳群も含まれていたのだろうと思います。

※続日本紀:奈良時代を中心とする歴史を記した、8世紀末に編纂された国の正史(六国史の一つ)のこと。

 こうしてみると、集落と墓地をどのように配置するのか、そのレイアウトは、集落で生活している人々が、自らにつながる死者、つまり祖先を、いかに考えたのかという信仰を物語っているといえるでしょう。

 どこに住み、どこで死者を弔い、どこを聖域とするか。その土地のレイアウトが400年にわたって守られていた。文献だけを読んでいたら、絶対に見えてこない話です。

なぜ、何百年も続いた村が一斉に消えたのか

━━笹生先生は、古代祭祀の終焉を10世紀に見出されています。これもまた現場で得た発想が起点になっているのでしょうか。

笹生 そうです。千葉県でずっと集落を掘っていたときに気づいたことでした。

 「集落」を発掘調査するということは、単に竪穴住居を1軒、2軒と掘り出すだけではないのです。地域全体を「面」で発掘調査していくと、かつての人々の暮らしや営み、さらに社会のダイナミックな変化が、「集落(村)の出現、消滅、移動」という形となって、土の中から生々しく浮かび上がってくるように感じます。

 たとえば、平安時代の集落遺跡の調査研究をしていると、それまで数百年も連綿と続いていた古い集落が、10世紀に一斉に消えてしまうという現象にぶち当たります。

 「おいおい、ここに住んでいた大勢の人たちは、なぜ消えちゃったんだ?」と。

 これは私が水田の遺跡を掘っていたから見えてきたことなんですけど、9世紀頃まで沼地だった海沿いの低地が、10世紀前後に乾燥して安定した土地になっていく様子がみられます。

 大雨で川が大量の土砂を海へと運び、海から砂が吹き上げられて海辺で砂堆(砂の高まり)が発達したり、新たにつくられたりします。すると、その背後の沼地や湿地は乾燥して安定した土地となる。そこに灌漑(かんがい)用水を引けば、広くて平らな水田をつくることができるようになる。

実際、私も発掘調査を行った千葉県南部の「市原条里遺跡」も、広く碁盤目に整備された水田が、本格的に拓かれるのは10世紀頃からです。

 もともと古代の人々は台地上に集落をつくり、台地の間にできた細長い谷を拓いて稲をつくっていたわけです。そこへ、平安時代の10世紀頃、海に面した広い平野が安定した土地になっていく。

 そうすると「谷の中よりも、向こうの平野のほうが広いし、まとまった量の稲が収穫できるぞ」となるわけで、当然、人々は平野部に出ていきますよね。人々は、新たな広い水田・耕地を求め移動し、結果として伝統的な古い集落は分散し、消滅に向かったと考えました。

 この着想を裏づけてくれたのが、後に参加する「気候変動研究プロジェクト」でした。中塚武先生を中心に自然科学と歴史学・考古学を統合したものです。この研究プロジェクトでは、樹木の年輪に含まれる酸素同位体の比率から、過去2600年間の湿潤と乾燥の傾向を1年単位という精度で復元しています。

 それを見ると、9世紀後半には洪水が起きた湿潤な年があり、10世紀に入ると、過去2000年間で最も乾燥する時期となり、西暦948年がピークとなっています。一方で急に湿潤となる年もあります。旱魃(かんばつ)が続くなかで突発的に大雨が降り洪水が発生するという状況です。

 古代の歴史書でも、9世紀後半は洪水、火山噴火や地震の記事がやたらと目につき、10世紀には深刻な旱魃と洪水が繰り返し発生。これと連動するように都の平安京では疫病の大流行が度々記録されています。

 私は、この状況を、すべて気候が決めていたと言いたいわけではありません。気候が振れると、地形が変わる。地形が変わると、古墳時代以来ずっと使われてきた灌漑用水の仕組みが機能しなくなったり、それまで水上交通で重要な機能を果たした港湾が使えなくなったりする。

 生産や交通の基盤が変われば、人の住み方や物流ネットワークなど、社会の枠組みも変わってくる。そのような社会的な連鎖がおき、その結果、集落は移動・消滅したと見ています。

神と死者をめぐる世界が組み替わった

━━その変化は、信仰の方にはどう及ぶのでしょうか。

笹生 さっきお話ししたように、古代の神々は「自然環境の働き」から直観される存在でした。

 水源となる山と山麓、湖沼や泉、灌漑(かんがい)用の水源。船を導いてくれる島、船を休め守ってくれる潟湖。交通路の難所の峠や危険な渡河点(とかてん)、移動する人々の目標となる山などなど。

 特に、5世紀の祭祀遺跡の立地を見れば、神への祭りが灌漑用水や交通路と分かちがたく結びついていたことがはっきりわかります。

 ということは、その用水や港湾が地形の変化で使えなくなったとき、神との関係も揺らがざるを得ない。今まで恵みをくれていた働きが、恵みをくれなくなる。あるいは災いの方ばかりを見せてくる。そうなると人々は、その状況に対応できる新しい信仰を求めるわけです。

 この後、12世紀頃にかけて急速に広まるのが、神と仏を一体に理解する「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」という考え方です。それから、仏教に由来する「勧請(かんじょう)」━━神の名を唱えれば、そこに神霊を呼ぶことができる、という発想が日本の神々にも適用されるようになります。

 これと連動するように、10世紀から11世紀には死者のとらえ方も変化します。千葉県で追いかけていた集落と古墳群のセット(対応関係)が、10世紀頃に崩れます。ある遺跡では、それまで大事に守られてきた古墳群の中に、10世紀の竪穴住居が入り込んでくる。古墳を区画する溝の上に、家を建てちゃっているんです。そこからは仏教の僧侶の持ち物が出土した例があります。

━━先祖の墓を祀れなくても、仏に祈れば救われると、信仰のトレンドが変わったということでしょうか。

笹生 そうなんです。400年以上、古墳群は「祖(おや)」がいる場所として飲食を供え続けてきたのに、その認識が失われる。集落が動けば、当然、近くにあった祖(おや)の古墳も視界から消えますからね。生活のレイアウトから「祖」が抜け落ちてしまう。

 それは祖先を共有するという「同族意識の消失」を意味します。結果として、古代の氏族としてのまとまりが失われ、集落そのものが解体した。

 この背景には、個々人を死後の来世まで救済するという仏教信仰が地方でも普及し、氏族の祖が子孫たちを守るという意識・信仰が後退したことがあったと考えられます。

 このあと死者は、仏教の供養を受け、死後の救済も保証される「霊」や「ほとけ」としてとらえられるようになっていきます。遺体・遺骨を塔や仏堂に納めて供養したりして、やがて中世の墓地の景観が現れる。古代的な「祖」から中世的な「ほとけ」への転換ですね。

 つまり、食料や道具などの生産の基盤と、神の見方と、死者の見方が、同じ時期にまとめて組み替わっている。私はその底に、この環境と景観の大きな変化があったと見ているんです。

問いは、机ではなく景色から立ち上がる

━━笹生先生の場合、いろんな分野の理論や知見を借りるにせよ、「問い」自体は、現場から立ち上がってくるのでしょうか。

笹生 景色を見ると、昔の人はこれをどう思ったのかな、と想像するんです。それが問いの根っこにあります。

 「人間はなぜ集団をつくるのか」という大きな問いがありますが、私にとってはそこに「なぜ『ここに』」という場所の問いが必ず入ります。なぜここに村をつくり、なぜここに死者を埋葬し、なぜここに神を祀るのか。それは、私の場合、その場に立って、そこを取り巻く自然環境と対峙してみないことには、生きた問いとしてなかなか立ち上がってきません。

 そして何より、一番リアルな発想が湧くのは、実際に現場で土を掘って調査している瞬間でした。遺構確認のときに、土の中から竪穴住居の跡や掘立柱建物の柱の並び、お墓の跡がパッと見えてきたとき、頭の中に当時の景色がぶわっと湧いてくる。

 「ああ、ここから海へ降りるにはあっちの道が近かったんだな」とか、桃の種が出たら「この畑のそばには桃の木があって、春にはきれいな花が咲いていたのかな」とか。

 そして掘りながら頭の中で古代の景色をイメージして、絵を描いていくのです。実際に博物館の学芸員時代には、そうやって遺構図をもとに、何枚も当時の村の復元イラストを色鉛筆で描いていました。

 宗像・沖ノ島へも、すでに複数回にわたり渡らせていただきましたが、現地に赴くたびに島の見え方が違うんですよ。

福岡県の本土から60kmの玄界灘のただ中に浮かぶ世界遺産、沖ノ島。白い巨岩からなり、波荒い玄界灘での重要な航海目標としての働きを示した(写真:笹生衛)

 海のどのあたりから、どんなふうに見えるのか。また、各地の祭祀遺跡との関係では、あの山が神のいる山だ、この沼が神のいる沼だというのは、その場に立って初めて実感できるわけです。

━━現場の景色や景観を見て初めて、問いの形が見えてくるのですね。

笹生 それに、文献の研究からは出てこない問いもあります。神道史の研究は基本的に文字の文献がベースですから、「『日本書紀』や『延喜式※』にこう書いてある」というところで一区切りついてしまいがちなんですね。でも、そこに出てくる器物や環境が実際にはどういう物で、いかなる状態だったのか。たとえば、神剣とはどんな刀剣なのか。この問いは、物に触っていないと立てられないし、答えられない。

※延喜式(えんぎしき):平安時代の10世紀に編まれた法制書で、最初の10巻は神々への祭祀の捧げ物の内容や祝詞、朝廷が幣帛を奉る神社の一覧などをくわしく記しており、古代の祭祀研究における基本史料。

 しかも私がやってきたのは、竪穴住居や掘立柱建物跡、溝などを延々と調査するという、非常に地味な仕事です。派手な古墳を発掘調査すれば「鏡が何枚、大刀が何本」という話になりますが、そういうものではない。

 ただ、地味な代わりに量が桁違いなんですよ。ごく普通の人々の暮らしを、点ではなく面として復元できる。それが私の研究の強みなのかなと思います。世界を見渡しても、宗教史を研究しながら、これだけ発掘調査で土を掘ってきた人間は、そうはいないかもしれません(笑)。

人間は、同じことを繰り返しているのかもしれない

━━近年の日本も災害や地震が頻発しています。笹生先生の研究から得られる示唆も多くあるのではないでしょうか。

笹生 これは私が言い出したことというより、資料を並べていくと自然にそう見えてくるんです。9世紀後半という時代は、いまと本当によく似ているんですよ。

 地震があって、気候が変動して経験したことのない量の雨が降る。この直後の10世紀には旱魃・大雨・洪水、飢饉、疫病蔓延という、災害の連鎖を経験する。1000年前、その揺れは末法の思想へとつながった。さらに日本が東アジアの広い交易圏に組み込まれたこともあり、日本の神々を仏教的に解釈した本地垂迹説が浸透し、日本人の考え方そのものを変えていった。だとすれば、いま起きていることも、この先の私たちの価値観や社会の形を確実に変えていくはずです。古代の話は、遠い昔話ではないんです。

 身も蓋もない言い方になりますが、人間は同じことを繰り返している、ということをしばしば感じます。

 埋蔵文化財の保護行政を担当していた頃、よく同僚たちと話していましたが、中世以降になると、人が住んではいけないところに、人々は住み始めるようにみえる。水運などへの利便性を重要視し始め、ある意味では人々の欲が勝ってくる。そして水害が発生すると大変な惨事になる。

 これ、いまのハザードマップの話とまったく同じでしょう。1000年前の人も21世紀の人も、住みやすいところへ行くし、利益が出るところへ行く。

 だからいま、このような千葉県のデータをまとめられないかと考えています。

 土地区画整理事業や道路建設、農地の圃場整備事業などに先立ち、台地の上から河川周辺まで、あちこちで発掘調査を行っていました。だから古代だけでも集落だけでなく、お寺やお祭りの遺跡、役所の遺跡、古墳や墓地、水田・畑、道路など多様な遺跡の調査データがある。縄文時代から室町時代ころまで含めれば、原始から古代・中世にかけてのビッグデータといえるでしょう。

 これらのデータをデータベースにして、どの時代に、どこに人が住んで、どこを避けていたのかを地図の上に落とせたら、その土地が何千年かけて何を経験してきたかが見えてくる。そうすれば、いま全国的に問題となっている水害などの災害を防ぐためにも大いに役立つのではないでしょうか。

━━遺跡の記録が、そのまま防災の資料になるんですね。

笹生 なるはずです。考古学や宗教学、歴史学というと、哲学のようにどこか現実世界から遠い、高尚で浮世離れしたイメージを持たれがちでしょう。

 でも私にとっては、人間が過酷な環境のなかでいかに集団を維持し、合理的に生き延びてきたかという、リアルな実学なのです。

━━最後に、これまで向き合ってこられた考古学は、俯瞰するとどのような学問なんでしょうか。

笹生 人間は、多様な環境のなかで生存し、より快適に、安心して生きられるよう努力と工夫を重ねてきました。私の研究は、その足跡を、場所と物にこだわって具体的に復元しようとするものと考えています。そのために、役に立つ学問的な方法を、いろいろと取り入れてきたと言えるでしょう。

 私の研究の問いは、以下のようにまとめられるかと考えています。つまり、人間には生命を維持したいと直観する「動物」としての側面と、価値・物語をつくり共有して集団・組織(社会)をつくり快適で安心な生活を実現させる「社会的な人格」としての側面があると思います。

 この二つの側面を同時に見て、人間の本質を明らかにする営みといえるかもしれません。この社会的な人格の基礎となる「価値・物語」が宗教・信仰と直結するのです。

 世界各地の集団間で紛争が頻発し、AIにより価値観が急速に変化している現在、このような研究の意義は、さらに大きくなったと実感しています。

 連載『問いの道』は、学問を究めようとする一人の学者が、どのようなまなざしで問いを眺めながら歩んできたのか。そして、根源的な問いが、どのように学問として立ち上がり、道となり、ときに道が分かれ、また新たな道につながっていったのか、その変遷を尋ねていきます。

  • 取材・執筆斎藤哲也
  • 撮影西田香織
  • デザインjaco
  • 編集中島洋一
  • 企画柳原暁

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