人文知

人文知とは、正解のない世界を一緒に見ること ― 人文知探究室✕三浦 篤・文学部 哲学科 教授

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 センスを磨くには美術作品を鑑賞しよう──ビジネスパーソン向けのものを中心に、そのような語りがなされるようになって久しい。ではそのような眼差しを一身に受ける美術の側、そしてその美術をアカデミックな知見において語ってきた専門家たちは、近年の流れをどのように受け止めているのだろう。そうした社会の期待と、これまで積み重ねられてきた学知はどのように関係性を結び、共にこの世の中に新たな刺激をもたらしていくことができるのだろうか。 

 注目を集める「人文知」の可能性を、國學院の学内から再発見していく企画、人文知探究室。既存の領域を横断しつつ、多様な分野の専門家に問いを投げかけていくインタビューシリーズだ。9人目は、三浦篤・文学部哲学科教授。19世紀フランス絵画を中心に、西洋近代美術史・日仏美術交流史を専門とし、一般向けの解説書などでも広く活躍してきた。令和5(2023)年より大原美術館館長を務め、美術に関心を抱く人々との交流もさらに重ねてきている。そんな三浦教授が語る、人文知の未来とは。

「役に立たない」の先に開ける、人文知の活路

探究室 作品を鑑賞してセンスを磨くといったことを含めて、近年はビジネスパーソンが美術に注目する機会も増えていると思います。そうした流れと人文知との関連を、三浦先生はどのように受け止めていらっしゃるのでしょうか。

三浦 私はまず、人文知の一端を専門とする人間として、こうした流れを歓迎したいという気持ちがあります。といいますのも、そもそも近年は人文知の存続意義というものを私たち専門家自身が考えなければいけない段階に入っていたからです。世の中から抱かれるイメージの問題として、短期的な役には立たないといったようなネガティブな印象をどうしても抱かれがち、という状況は否定しようがありません。社会的な意義をどう説明するのか、どのように存続させていくのかということを考えなければいけないという課題に、直面していたわけですね。そのなかで、たとえば美術においては、ビジネスパーソンが教養を高める、あるいはアートに投資するといったさまざまな切り口のなかで、これまでの状況が一部で逆転しているように見える。人文知はこのまま消滅に向かうのだろうかという懸念を抱いていたなかで、意外にも生きる道があるのだという期待を抱かせてくれたという側面があります。

探究室 専門家として、まずは積極的に歓迎したい、と。

三浦 ただしそこで求められている人文知というのは、従来の人文知とはまた違うかたちであろう、ということも考えています。私は大原美術館の館長を務めているのですが、その活動の一環として一般の方々に向けて講演をしたり、あるいは西洋近代美術史の専門家としてビジネスパーソンの方々に向けてレクチャーをしたり、といった機会が度々あるんです。そこには新たな人文知の姿の萌芽があるように感じられます。いま人文知に手を伸ばしておられる方々は必ずしも、単に興味があるとか、短期的に役に立つから、といったことでアプローチしていらっしゃるわけではないのではないか。であれば、人文知の側が、新たに社会との関係性を構築していく必要があるのではないだろうか。このように考えているんです。

共有された「正典」が失われた時代に

探究室 三浦先生が感知しておられる人文知のニーズについて、お聞かせ願えますか。美術の分野において講義やレクチャーをされるなかで、いまどのような関心が抱かれていると感じていらっしゃるのでしょうか。

三浦 私が拝見する限りにおいてですが、おそらくは自己啓発的なものを求めてきておられる感じがするんです。世の中を見渡してみれば生成AIの利用も広がってくるなど、恐ろしいほどに目まぐるしく変わっていく、驚異的ともいえる状況のなかで、もう一度自分を見つめ直したいと思っていらっしゃるのではないか、と。仕事などを含めて、普段のご自身はそうした流れに乗って生きているのだとしても、果たしてそれだけでいいんだろうか、ちょっと立ち止まってみたいと感じていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。それは大学のことを考えてみても、学生たちはもちろん、私たち研究者だって同様なのです。さまざまなツールも、思考のあり方もどんどんと変化するなかで、藁をもつかむ気持ちで手がかりを探すという点においては、そこに大きな違いはないのではないかと思います。だとすれば、専門的な知との関係性もまた転じていって然るべきだろう、と考えるわけですね。

探究室 たしかに、自分のありようを見つめ直したいというとき、そこで求められる知もまた変わってきそうです。

三浦 これまではやはり、当然身に着けるべき教養がある、といった考え方が根強くあったと思います。たとえば文学でいえば、読んでおくべき古典、普遍的な価値をもつ正典(カノン)というものが存在していて、誰もがどこかで一度は学んだり手に取ったりする、ということが前提としてあった。もちろん、そうしたたしかな教養のもとになされる議論は多くあり、私もまたそのようにして先達の方々が積み重ねてきた知の体系のなかで学び、研究してきた人間のひとりではあります。しかしそれは、古典をめぐる価値観が共有されていたからこそだと思いますし、その価値観自体がいまやバラバラになっている。知の前提として共有される知がほとんど存在しない、といっていい。

探究室 共通の基盤が存在しない、と。

三浦 そもそも多くの人が本を読まなくなってきているなかで、文学にしても哲学にしても読むべき古典があるのだといったところで、「それを読んでどうなるの?」と聞かれたら、私たちもにわかには説得力のある回答はできない。いや、繰り返すように、それらの古典は非常に重要ではあるのです。しかし、一昔前なら「これぐらいは読んでおきなよ」と先輩たちから言われたようなことを、いま口にすることは憚られます。カオスともいえる現代において、私たちがそれぞれにもつ価値観が多様化するなかで、その古典を読んだら明快な解が与えられるのだといったことはいいようがない。そのうえでなお、時代の荒波にさらされるなかで、皆が拠り所を求めてもいる。そのときに、どのような知を一緒に築いていけるのか、ということは考えますね。

効率化社会の「余白」として──美術の実存的価値

探究室 人々が生きる拠り所としての人文知というのは、たしかに議論の多くはこれからという気がします。

三浦 こうも考えられると思うのです。いまの社会はほぼすべてが効率化され、合理化されていて、曖昧なものが潜む余地がほとんどない。しかし本来、人間っていう存在はいい加減なところがあるじゃないですか。必ずしも明確ではないもの、バッファ(緩衝域・余白)といえる部分、あるいは余剰ともいえるところを絶えず含み込んでいるのが人間というものだと思います。それなのに常にきっちりとした社会で生きているのだとすれば、これは皆さん、違和感を抱くのは必至でしょう。このあいだをつなぐ知が必要なのかもしれません。息苦しい世の中ではあるけれども、そこでたしかに生産活動を含めて社会的な営みはなされている。しかし人はそれだけでは生きていけなくて、ダラッとしたところにも本懐がある。そのあたりをどう調停するのか。

探究室 なかなか難しい問題だとは思われますが、たとえば美術には、そうした人文知的な期待が寄せられているわけですよね。

三浦 アートには、すごくバッファがあるのだと思います。もちろん美術にはさまざまな価値があると私も思っていて、すさまじい精度における造形的な美しさを見ることができるという点での価値もあれば、歴史的な価値、社会的な価値というものも当然ある。そうしたさまざまな価値のひとつとして私は、鑑賞するその人個人にとっての、いわばパーソナルな、実存的な価値というものがあると考えているんです。

探究室 実存的な価値、ですか?

三浦 たまたま出会った美術作品になぜかすごく感動してしまった、心に刺さったというような経験がある方も多いだろうと思います。それは普段の合理化された社会のなかではなかなか見つけられないものでもあるし、仮に出会ったとしてもなかなか説明のつかない体験でもある。しかし、そうしたある種の制限のかかった状況を打ち破るような、異世界を見せてくれるのがアートだといえるのではないでしょうか。我々の日常は9割方、パターンのなかで生きているといっていいわけですが、そこに亀裂を入れ、部分的であれ壊してくれるような──自分の生き方や価値観を揺るがしてくれるような力が、美術にはある。私はアートの究極の価値はそこにあると思っていて、実存的な価値と呼んでいます。存在の根底を揺るがす体験をもたらしてくれるものを求めて、皆さんが美術に近づきつつあるのだと感じていますね。

正解のない世界を「一緒に見る」

探究室 そうした流れがあるのだとすれば、先ほど三浦先生がおっしゃったように、たしかに専門的な知と人々との関係性は変化する部分があると思います。たとえば近年、講義やレクチャーの場で美術史の専門家としてお話しされるときは、どのように語りかけていらっしゃるのでしょうか。

三浦 多くの場合はパワーポイントを用いつつということになりますが、とにかく“一緒に絵を見る”というスタンスですね。対話しながら、一緒に絵を鑑賞する。美術史に刻まれた傑作であるとしても、研究者たちによる定説をいきなり押しつけるというようなことはしません。こんな絵がありますが、どう見えますか? 絵のここの部分に注目するとしたらどうですか、あるいはこうも考えられますよねといったように、多様性や曖昧さをできる限り含み込んでいくように展開します。美術作品を、ファジーで、バッファをもとから抱え込むものとして提示していくということですね。正解はない世界であって、あなただけの見方があるはずだ、と。ひとつの作品に対して全員が違うイメージをもつかもしれない、ということを前提としながら語りかけていくわけです。

探究室 たしかにそれは、従来の美術史的なレクチャーとは大きく異なるものですね。

三浦 昔はやはり、ある程度定まった知を授けるといった側面が大きかったように思います。この作品は歴史的にこうした価値や意味をもっているのだということを、私自身も何十年と教えてきた。もちろんそうした知識は、あっても別に邪魔ではないんです。ないのですけれども、その知識にとらわれる必要もない。一般の方々に対しては、いまあなたがどう見ているのかが大事なのだと語りかけます。そうしてご自身の見方を問われると、「これはどういう絵なんだろう」と、鑑賞者の方の主体性がグッとせり出してくる。その主体性は、普段は眠ってしまっているものなんですよ。普段は合理的な世界のなかで生きていて、美術を見るにしてもあらかじめ正解があり、それを知りたいという姿勢でいるとき、ご自身の主体性は後ろに隠れてしまっている。その主体性を引き出すお手伝いをするのが、私が近年心がけているスタンスなんです。

探究室 なるほど。とはいえ、やはり専門的な知見がそうした鑑賞の手がかりになることもあるのではないでしょうか。

三浦 先ほどお伝えしたように、決して知識を排除しているわけではないのです。学生相手の講義であれば、そうした知識もきちんと伝えたうえで、自分自身で鑑賞する機会を設けるなどのプロセスを考えています。一般の方々に向けてお話しをする際も、来場された方々のお顔や反応を見ながら、専門的な見解をお伝えすることがご自身の鑑賞の刺激となりそうでしたら、そうした語りをうまく入れ込んでいくということをしています。たとえば、19世紀の画家、エドゥアール・マネの《フォリー・ベルジェールのバー》という有名な絵画作品がありますよね。

探究室 マネのキャリア終盤における代表作ですね。

エドゥアール・マネ《フォリー・ベルジェールのバー》1882年 コートールド美術館蔵 © The Courtauld (Édouard Manet, A Bar at the Folies-Bergère, 1882. The Courtauld, London (Samuel Courtauld Trust). CC BY-NC.)

三浦 この絵を“一緒に見る”のであれば、鑑賞者の方の目がどこに引きつけられたのか、ということから、つまりはその見方について、場に集った皆さんにお話をうかがうことからはじめていくことができるでしょう。中央に描かれた華やかな女性の、しかしちょっとボーっとしたような、うつろで孤独な眼差しに引きつけられるという方がいるかもしれません。別の問いかけをしていくのであれば、後ろに描かれている鏡と女性、あるいはその女性と対面している男性の位置が不思議ですよね、と語りかけることもできますね。

探究室 さまざまな興味がかきたてられる作品ですね。

三浦 こうして投げかけるさまざまなトピックを、専門的な知へと結びつけていくことも可能です。この絵画は、19世紀後半のパリで人気を博していた大衆的な劇場を舞台にした作品であり、その中央にきらびやかな姿をしたバーメイドが描かれている、というもの。鏡のなかにはホールに集った人々の賑わいが描かれているわけですが、手前の人物と奥の鏡に映り込む群衆は、絵筆のタッチが異なりますよね。こうした技法上の効果について話すことができる一方で、パリという都市とマネというテーマもまた、大きな問題系として開かれています。他方で、この中央に描かれた女性はブルジョワ男性との関係を拒まない娼婦まがいの存在である可能性があるのですが、となれば西洋近代美術史における娼婦のテーマとその表現を説明する、ということもあるでしょう。

バラバラのままで、響き合う知へ

探究室 専門的な知との関連づけも、その場に集った人々との関係のもとに都度おこなわれていくわけですね。

三浦 いろんな提示をしていって、皆さんがそれぞれに興味を抱くポイントがある。それを今度はご自身で探究していっていただければ、ということなんです。私はいまでは、そうした皆さんの興味や知見が、必ずしも定説的な知見に集約されなくてもいいと思っています。バラバラのままでいい。いやむしろ、集約することに無理がある。各自の生きている環境があり、考え方や感性が違うとき、そこである種の正解といえるような知にすべて紐づけようとするほうが難しい。人文知と人々の関係性が変化していくと申し上げた所以ですね。個の実存に響く知であるということがまず重要であって、それを再度集約してまた共有するというのは、簡単なことではありません。

探究室 なるほど。アカデミアを含めた専門的な知見と、人々の実存に響く知というのは、離れていくものなのでしょうか。

三浦 いや、むしろ密接にリンクしていくものだと私は考えています。研究者だって、論文にどれほどの説得力をもたせられるかということでそれぞれ闘っているわけですが、100%の正解はないんです。より整合性があれば説得力をもつとされるわけですが、やはり研究の世界においても解釈はまちまちなんですね。つまりアカデミアもまた、バラバラといえばバラバラなのです。それらをすり合わせて学問として磨きをかけていくプロセスはたしかにあるわけですが、だからといって必ずしも集約しきれているわけではない。そのような意味で、いま人文知に興味を抱かれている皆さんと私たち研究者のありようは、決して遊離しているのではなく、むしろ似通っているといっていいのではないでしょうか。

探究室 興味深いです。人文知に興味を抱く人がさまざまな問いに導かれて探究を深めていくように、三浦先生においても、さまざまな学びが次の学びを呼び、やがてそれが紐づけられていくことの連続だったのではないかとも想像します。

三浦 それは本当に、偶然の連続としかいいようがないんです。私は決して体系的に探究してきたタイプというわけではないということもあるのですが、偶然の学びは先達の方々に導かれたものでありますし、その積み重ねを意識するのは、たとえばこうしたインタビューなどの場で他の方から尋ねられたり、原稿の執筆を依頼されたりしたときなんですね。それはつまり、学びには触媒となる他者が必要だということなのだと思います。触媒が起こす小さなスパークに満ちた学問──そうした学問として、これからの人文知を考えていければ面白いのではないでしょうか。

人文知探究室後記

「引き出しはたくさん自分でも作っておきたい。まだまだ足らない」と、三浦先生はさらりと言った。その言葉が、インタビューを終えてもしばらく頭のなかに残り続けた。惹かれるままに知の動きに身をゆだねてこられた方が、それでもまだ足らないと言う。その知の水源はどこから滲み出るのだろう。

曖昧なものが潜む余地のない社会という先生のまなざしに、ふと、「あそび」という言葉が浮かんだ。行為としての遊び。余裕としての遊び。そしてルールや構造の中に設けられた遊び。機械の歯車もそれがなければ、かみ合いはやがて摩耗するように、人の思考もまた同じなのだろうか。社会や文化の根源を遊びに見出した先行研究は少なくない。

「あそび」がオイルのごとく思考の継ぎ目に染み渡るとき、新たな問いへとしなやかに接続されていくのだとしたら、引き出しを増やし続けようとする姿勢の底には、そうした「あそび」が脈打っているように思えてならなかった。

知ることへの欲求。それは誰もが持てる、自由で軽やかなものであってほしいと思う。人文知が顔を見せるのは、そういう瞬間なのかもしれない。

人文知探究室 原口章

人文知探究シリーズ 第1回は「人文知とはデータを実感できる想像力」>>

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